■節子への挽歌3110:5年目の3・11
節子
今日は東日本大震災から5年目です。
時評編に書きましたが、重い1日です。
いろいろと思うことも少なくありません。
あの日、1日だけで、多くの別れが起こってしまいました。
しかも、その悲しみが複雑に絡み合っていることでしょう。
自分の悲しみであると同時に、自分たちの悲しみでもある。
そして、その一つひとつに、他者とは分かち合えない物語があると思うと、それだけで私には3.11は想像さえできなくなります。
私は、たった一人との別れで、人生を変えてしまいました。
人生を変えた人たちが生み出す社会とは何なのか。
隣に、もしかしたら自分と同じ悲しみや重荷を背負っている人がいる。
そう思うことで、自らの重荷と悲しみは変わるでしょうか。
重くなるのか軽くなるのか、それもわかりません。
悲しさを共有することは、気持ちを楽にしてくれます。
私も、悲しさを出し合う場に参加したことがありますが、そう実感しました。
しかし、それは「いっときのこと」だったような気もします。
それに、もし悲しさがまわり中にあるとしたら、どうなるのか。
不謹慎ですが、そんなことも考えてしまいます。
震災の日以来、行ったことがないところに行った人の話が、報道されていました。
その人は、なぜそこに行ったのでしょうか。
テレビの報道の対象になったからでしょうか。
テレビの取材のおかげで、再訪する勇気を得たのか、
テレビの取材のなかで、自らの悲しみを変えてしまったのか。
こんな思いで、3・11特集を見ていると、何か自分が嫌になってきます。
しかし、なぜかそんな思いが浮かんできてしまうのです。
悲しみは自分だけのものです。
だれにもわかってなどもらえないし、だれかの悲しみをわかることなどできようもない。
それにもかかわらず、多くの人は悲しみに触れたがる。
自分の悲しみをわかってもらいたくなる。
今日はとても複雑な思いで、1日を過ごしました。
テレビをつけては消し、消してはつける1日でした。
ちょっと疲れる1日でした。
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