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2016/03/03

■節子への挽歌3100:湯島の場の不思議なパワー

節子
昨夜はちょっと重いテーマの話し合いを持ちました。
集まったのは4人です。
みんな思いのある、しかしちょっと社会の本流からは外れた人たちです。
いや、ちょっとではなく、かなりかもしれません。
社会に居場所を見つけられずにいる人たちの居場所を増やしたいというのが、共通した思いであり、そのために時々、ミーティングをしています。
みんな忙しく活動しているので、会うのも夜しかありません。
話しているうちに、昨夜も10時近くになってしまいました。

社会のど真ん中にいると、社会の実相は見えにくいように思います。
ど真ん中でないとしても、大きな組織にいると、見えてきません。
私は会社を辞めて、さまざまな現場に関わらせてもらううちに、社会の豊かさを知りましたが、同時に、「やりきれない現実」も知りました。
おそらく昨夜集まった人たちも、そうした「やりきれなさ」に無関心ではいられない人たちなのです。
かなり年上の私だけが、良い時代の恩恵を受けてきました。
ですからいささかの後ろめたさはありますが、そういう私にもできることはあるはずです。
そんなわけで、まあ時々、こうやって話し合いをしているのです。

3人が異口同音に行ってくれるのが、湯島のこういう場はめずらしいということです。
私は、こういう場はほかにもたくさんあり、しかももっときちんとした場があると思っていますが、そういう場をいろいろと体験しているはずの3人からそういわれると、ちょっと「そうかな」という気にもなります。
どこがどう「めずらしい」のか、なかなか言語化はできません。
でも、私自身、なんとなくわかるような気もします。
私は、本当は、もうあんまり社会に関わらずに、のんびりと無為に過ごしたいのですが、どうもこの湯島の「場」が、私を動かしているのかもしれません。
そんな気がしてきています。

昨夜の話し合いで、また新しい活動が始まりそうです。

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