■節子への挽歌3129:節子はいつもうれしい思いをしてくれていたはずです
節子
今日もまた湯島に来ています。
いまお客さまがお帰りになり、次の来客まで少し時間ができました。
今日は「認知症」と「企業経営」の相談です。
夜は地元での集まりもあります。
以前ほどではありませんが、私の活動も少しずつ戻ってきています。
いま考えると、私はいささか忙しすぎたのかもしれません。
今朝の朝ドラ「あさが来た」を見ていて、ふとそんなことを思いました。
節子との時間があったようでなかったのかもしれません。
その生き方から抜けるために、休業宣言をした直後に、節子の病気が発見されるというのも、いかにも皮肉な話です。
節子の闘病中も、節子のベッドの隣で、本を読んでいたのも、いまから思えば痛恨事です。
本を読むのではなく、節子と語らうべきでした。
もっとも節子は自分の寝ている隣で、私が本を読んでいるのが好きだと言ってくれました。
その言葉に甘えすぎていたような気もします。
まあ、そんなことをいろいろ考えながら、いま、生活スタイルを少し変え始めようと思いだしています。
節子からは、遅すぎね、と言われそうですが。
いま相談に来ていた3人の方のうち、2人は初めての方です。
楽しい時間を過ごせたと言ってくれました。
誰かが幸せな時間を持つことに役立てることは、うれしいことです。
私は、節子が隣にいるだけで、いつも幸せでした。
だとしたら、節子はいつもうれしい思いをしてくれていたはずです。
こうして思い出は、いつも自らを正当化して、安堵して終わります。
さて次の来客は、楽しい時間を過ごしてくれるでしょうか。
珈琲豆を挽いて、お湯を沸かして、待つことにしましょう。
ものがなしい春を、楽しい春にしていかねばいけません。
昨夜は深夜に目が覚めて、眠れない夜を過ごしました。
隣に節子がいなくなってから、熟睡した夜は一度もありません。
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