■「社会的弱者」(と言われている人たち)が社会を育てる
私が住んでいる我孫子市では、野外放送が時々行われます。
そこで、行方のわからない高齢者(認知症と言われる人)の情報が流れることが少なくありません。
具体的な情報が流され、そういう人を見かけたら連絡してほしいという放送です。
時に行方不明の子どもの情報が流れることもあります。
大体において、数時間後、遅くも翌日には、無事見つかったという放送が流れます。
在宅時にはよく聞くことがあるのですが、この放送は、住民たちにまちで歩いている人たちへの関心を高める効果があります。
つまり、認知症の人たちが、行方不明になってくれるおかげで、まちを歩く人やまちの様子に対する住民の関心が高まるわけです。
いささか不謹慎で、身勝手な言い方になりますが、認知症の方がまちで行方不明になることが、安心安全なまちづくりにつながっているともいえるように思います。
住民たちが、まちの様子に関心を高めていったら、間違いなく、まちは安心安全で、きれいになっていくでしょう。
そう考えれば、社会的に「弱者」と言われる存在の人たちが、実は社会を育てているのです。
しかし、そう言う人たちを排除する動きも、一方では存在します。
最近の日本では、優生学的気分が不気味に広がってきているような気配も感じます。
いささか考えすぎかもしれませんが、最近の若者の顔が何かみんな似てきているような気もします。
少なくとも、話し方や身のこなし方は似てきています。
社会にとって大切なのは、しかし、そういう画一化された優等生たちではありません。
この社会で生きにくいことをはっきりと顕在化している人たちこそが、社会を豊かにしてくれます。
それを忘れたくはありません。
そういう視点で、今回の認知症の方の列車事故訴訟を考えると、たくさんのことに気づかされます。
むかし読んだ森本哲郎さんの「ゆたかさへの旅」という本の中で、森本さんは確かこう書いていました。
インドのモヘンジョダロの人たちは、街をきれいにしていく活動に取り組んで、街を汚す要素を次々となくしていった。
そして、下水道も完備した立派な都市をつくりあげた。
しかし、どうも満足できない。
もっときれいな都市にしたいという願いが強まった時に、何が都市を汚くしているかに気がついた。
そして、自分たち住民を、片づけることにした。
そのために、モヘンジョダロは、突然、人のいない都市になり、いまも残ったのである。
その本を読んだとき、私は人類の歴史の意味がわかった気がしました。
人類の未来も、ですが。
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