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2016/03/21

■節子への挽歌3123:挽歌気分

節子
以前は、挽歌を書くときにはある種の儀式的なことがありました。
たとえば、パソコンの前に置いている節子の写真を見ながら、節子に挨拶をしてから書くというように、です。
しかし、最近は、ただ私の日記をつけるような感じになってきています。
「挽歌」と銘うっている以上、もう少し「挽歌」らしい内容にしたいと思うこともありますが、無理して挽歌らしくするのは私の挽歌ではないような気もして、いささか悩ましいです。
まあふらふらしているということです。

この挽歌を毎日読んでいて下さっている人から、メールをもらいました。

心地よい言葉ではなく、修さんもいろいろ葛藤して生きているんだ。
生きることはその葛藤というか、いろいろな思いを持ち続けること。
そのことを、感じています。
ありがたくプログを心待ちにしています。
私のふらふら状況が、読者にもちゃんと伝わっているようです。
たしかにいまの私は、まだ精神的に安定していないのでしょう。
なにしろ「支え」がないのですから。

いま鈴木大拙の「日本的霊性」をゆっくりと読み直しています。
そこに万葉集にはたくさん挽歌が出てきますが、鈴木大拙さんは、それを鋭く切り捨てます。

死者を傷む「挽歌」なるものの中には、ただ悲しいということのほかに、無常とか、「逝くものは斯の如き」とか、「水沫(みなわ)の消えて跡なき」などいう考えも詠まれているが、どうも深いものがないようだ。
何か死の神秘性、永遠の生命、生死を超越した存在、水沫ならざるもの、頼る月の如くに満ち、または欠けることのないものに対するあこがれ、行き方知らざるものを捉まんとする祈り、または努力、または悩みなどいうものが、『万葉集』中には少しも見あたらぬ。

いやはや手厳しい。
もちろんこれは、「霊性」という視点からの論です。
大拙さんは、霊性を大地につなげて考えていますので、万葉集の挽歌は、宙に浮いたものと捉えるのでしょう。
万葉人と一括りにしてほしくない気はしますが、それはともかく、自らの心情を素直に書き綴ることも、深いものがないかもしれないですが、書き手にとっては間違いなく「挽歌気分」ではあるのです。
挽歌として着飾るよりも、防人歌のように、ただただおろおろとする自分も素直にさらけ出したいと思っているので、時には意味不明や矛盾した記事もあるのです。
歌人のような表現力がないことが、時に残念ですが。

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