■節子への挽歌3101:「悲しみを知らない者は、生の歓びを知らない」
節子
3月になって少し流れが変わりだしたような気がします。
世界は、自らの脳の中にあると誰かが言っていたような気がしますが、まさにその通りです。
新しいプロジェクトに取り組みたくなってきています。
もっとも自分で自覚している自分と他者に見えている自分とは、かなり違うようです。
最近特にそう感じます。
私があんまり元気がなくて、活動が停滞しているなと思っているのに、佐藤さんの最近の活動は、どうしちゃったのかと思うくらい盛んですね、などと言われることもあります。
人の見え方はいろいろです。
人の思いや実体は、実はあまり表面には出ないものなのだろうと思います。
元気がないからこそ、見かけ上は頑張ってしまうこともある。
悲しいからこそ、笑ってしまうこともある。
「悲しみを知らない者は、法に遇う喜びを知らない」と、仏教思想家の金子大栄さんは言っています。
「法」とは、仏の教えの意味でしょうが、真理と言い換えてもいいでしょう。
私は、生命の、あるいは生の輝きというように受け止めています。
喜怒哀楽の核心は、涙だと思います。
喜怒哀楽のすべてにおいて、涙は出てきますから。
しかし、最も深い涙は、悲しみだろうと思うのです。
そして、その深い涙を体験すれば、生の輝き、エラン・ヴィタールを感じられるようになる。
最近、ようやくそんなことを思い至ることができるようになってきたのです。
しかし、思い至ることと実感することには、まだ距離があります。
残念ながら、私の場合は、まだ実感はできずにいます。
ですから、まだ「笑い」が戻ってこないのです。
会社を辞めて、生き方を変え、節子と2人で仕事を始めたころ、取材を受けたことがあります。
会社時代にも取材を受けた人です。
その人が本に書いた記事に、私が以前とは全く違って、「ともかくよく笑う」と書いていました。
あの記事を書いてくれたライターの工藤さんとは、つきあいがなくなっていますが、彼女がいま私を取材したら、何と書いてくれるでしょう。
法に遭う喜びを得たら、また笑いが戻ってくると思うのですが、まだ戻ってこない。
悲しみがまだ不足しているのでしょうか。
悲しみすぎたのでしょうか。
いや、信仰が不足しているかもしれません。
今日は、節子の102回目の月命日です。
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