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2016/03/01

■節子への挽歌3097:日本人は本来みな仏教徒

節子
昨日、NHK「こころの時代」のことを書きましたが、仏教関係の番組も、最近よく見ています。
私は、仏教に関して、特別に何かを学んだことはありません。
仏像を拝むのは好きですが、お説教を聞くのも苦手です。
仏教関係の書物も時々読みますが、それはかなり小難しい本であり、いわゆる僧侶が書いた本はあまり読みません。
最近人気だという若い僧侶の書いた本を薦められて、読んだことがありますが、退屈でした。
もちろん、たとえば韓国の法頂さんの著作などは面白かったのですが、それは「お説教」などとは無縁だったからです。
その生き方に共感したのです。

ところで、日本人は本来みな仏教徒なのではないかと思います。
NHKの「こころの時代」で仏教関係の番組を見ていると、とても納得できることが多いのです。
言葉は難しいですが、私が子どもの頃の日本人の生き方が語られているだけのような気もします。
そういう生き方がいまは大きく変わってきているのでしょう。
日本人は、おかしな方向に「教化」されてしまったような気がします。
私自身も、忘れていたことに気づかされることも少なくありません。
無意識にやっていることを意識化されることもあります。
ですから、自らを問い質す意味でも、仏教関係のテーマはできるだけ見ています。

そして、思うのです。
日本人は本来みな仏教徒なのではないか、と。
私の生き方も、かなり(日本)仏教徒の生き方だなと思うのです。
少なくとも、キリスト者やムスラムではありません。
人の思想は、やはり風土に深くつながっている気がします。
これも実は、節子と結婚して、滋賀の暮らしを垣間見せてもらったおかげです。
華厳経や法華経、あるいは禅宗でも浄土宗でもいいのですが、そういうものの解説を聞いていると、まさに日本人の生き方そのもののように思えてきます。
私の生き方や思いとも重なっているのです。

誤解があるといけませんが、私が高僧のような生き方をしているという意味ではありません。

人にはみな仏性がある。
利他は利己を包み込んでいる。
個々のいのちにすべてのいのちが畳み込まれている。
信頼すれば裏切られることはない。
疑いを持てば、それが現実になる。
縁がすべてを起こし、因と果は循環している。
素直に誠実に生きることにこそ仏性。
ご先祖様に恥じない生き方。
などなど、こういったことが、素直に心に入ってくるということです。
いささか手抜きのこともあるのですが、毎朝唱える般若心経のメッセージも、あまり違和感なく心に入ってきます。

昨日、竹村さんの声を聞きたくて見た番組では、黄檗宗の「伝心法要」に出てくる「動念即乖 擬心即差」という言葉が紹介されていました。

念を動ずればすなわち乖(そむ)く
心を擬すればすなわち差(たが)う
とてもよくわかります。
たぶんこれは昔の日本人の生き方だったような気がします。
その生き方を大事にしていたはずが、私も世間の風潮に流されて、どうも念を動じ、心を擬する生き方に陥ってきているようです。
改めて、自らを問い直さなければいけません。

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