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2016/04/07

■なぜ裁判員制度は行政訴訟に適用されないのか

川内原発の運転差し止めは、福岡高裁によって棄却されました。
新聞での判決要旨しか読んでいませんが、「合理的」とか「客観的」という言葉が安直に語られているのがとても気になりました。
判決の文章にも不思議さを感じました。

たとえば、「住民らが生命、身体に重大な被害を受ける具体的危険が存在しないと、九電は相当の立証を尽くした」とあるようですが、「立証を尽くす」ってなんなのだろうかという気がします。
「現在の避難計画の下で川内原発を運転することで、住民らの人格権を侵害する恐れがあるとはいえない」ともありますが、すでに住民の人格権が奪われているような気もします。

まあそんな表現をいくらあげつらっても、水掛け論になるでしょう。
しかし、大津地裁の判断とはあまりにも違い、司法の判断とはいったい何なのかを考えたくなります。
単に「ある裁判官」の判断ではないのだろうかという気になります。
そう言えば、以前、ある人から家庭内暴力に関する冤罪の相談を受けたことがあります。
その人は膨大な資料を持ってきて、「○○裁判官に当たってしまうと、すべて男性が加害者になり親権も剥奪されるのです」と説明してくれました。
その真偽のほどは私にはわかりませんでしたが、自らのまわりのささやかな体験を思い出すと、まんざら否定できない気がしました。
司法は「私物化」されているのではないか、とまでは思いたくありませんが、現代は「私物化」の時代ですので、そういう状況が一部にあっても不思議はありません。

私は、裁判員裁判には否定的なのですが、もし裁判員裁判を適用するのであれば、こうした行政訴訟や社会全体に影響を与える「公衆に大きな直接的影響」を及ぼす事件にこそ、適用すべきだと考えます。
そうであれば、「客観的」とか「合理性」とかの基準が、一個人の価値基準から解放されるからです。
客観性とか合理性は、間主観的に成り立つものだからです。

それにしても、福島の原発事故の原因究明ができていないばかりか、その解決さえ十分できていないのに、次々と原発が再稼働されていく状況を見ていると、過ちは数回繰り返さないと気づかないものなのだなと思わざるを得ません。
まあ、私自身もそうですから、それは仕方がないのかもしれません。
しかし、そうした「過ち」を小賢しく利用している人たちを見ると、情けなくなります。
彼らにも、家族がいて、生活があるはずなのですが。
私には、とても不思議です。

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