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2016/04/23

■節子への挽歌3156:深いつながりと浅いつながり

敦賀の義姉から今年もタケノコが送られてきました。
義姉の家もいまいろいろと大変なのですが、私のタケノコ好きを知っているので送ってくれたのです。
いつもは娘にすべて任せているのですが、今回は私が皮をむきました。
驚いたことに皮をむいたら大きなタケノコが予想以上に小さくなってしまいました。
なんだかだまされたような気がしました。
もちろん皮をむいたら小さくなることは、さすがの私でも知っていたのですが、実際にやってみるのと観察するのとでは、印象が全く違うものです。

人もまた、タケノコのように、たくさんの皮で包まれています。
私はかなり本性のままに生きているつもりですが、それでもたくさんの皮をかぶっているのでしょう。
そうした「皮」を剥いでいって残るところは、みんな同じではないか。
人は、深いところで、通じ合える。
そういう考えで、日本在住のガーナ人のアナボヌ ユウジンはweasone というNGOを立ち上げました。
理念は、DEPTH(深いところでみんなつながっている)。
彼とは2回ほど、彼の考えている活動に関して激論を交わしましたが、たしかに深いところではつながっていることを感じます。
しかし深くないところでは、やはりかなりの違いもあります。
weasoneは、まだいろいろと試行錯誤段階ですが、彼の活動を少し応援しようと思っています。
実際に何かを一緒にやることで、理解は深まりますから。
深いところでみんなつながっていることの実体が、見えてくるかもしれません。

それはともかく、私たち夫婦は、深いところで理解しあっていたでしょうか。
そして、浅いところではどうだったでしょうか。

人の繋がりは、浅いところと深いところがあります。
浅いところでの理解や共有は、時間を共にしていれば、自然と育ちます。
しかし深いところでの理解と共有は、それなりの努力が必要かもしれません。
人間や生命としての核、つまり一番深い最深部は同じだと思いますが、そこに達する直前の、個人的な本性は、たぶん人それぞれです。
ですから、そこに関わると、誤解や混乱や反発が生ずることになります。
ですから友人知人関係の場合、深入りせずに浅いところで付き合っていたほうが、楽しいでしょう。
しかし、夫婦はそうはいきません。
どうしても相手の深部に関わらないわけにはいかない局面がやってきます。
それがまあ、「7年目の危機」かもしれません。
そこで壁を破れないと、その先にはなかなか進めないかもしれません。

幸いに私たちは、その壁を超えられました。
お互いに、自らの弱みをさらけ出すことができたからです。
弱みを見せられることが、夫婦の出発点かもしれません。
そして私たちは、夫婦になったわけです。
さまざまな気づきがあり、関係が少し冷えた時期もなかったわけではありません。
でもそれを乗り越えたのは、たぶん相手の弱みを十分に知り合っていたからではないかと思います。
深いところで共有するものを持っていれば、浅いところの違いはむしろお互いを豊かにしてくれるものになります。
浅いところでの、違和感は、いかようにも対応できるものです。
逆に、浅いところで世界を共有していても、深いところでのずれがあると、いつかお互いに疲れが出てきます。

弱みを共有する。
それが夫婦の最大の意味かもしれません。

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