■節子への挽歌3147:人間の本質は移動のなかにある
節子
節子がいなくなって、8年半ですが、ようやく少し動き出せそうです。
その気配を感じます。
「人間の本質は移動のなかにある。完全なる平穏は死だ。」
と書いたのはパスカルでした。
パスカルは胃病のためにあまり行動できず、そのせいで、「人は快適な寝場所を牢獄と感じる」とも嘆いています。
行動したいのに思うように行動できなかったパスカルにとっては、平穏こそが苦痛だったのかもしれません。
そのくせ、パスカルは死に対しては不安を持っていたようですから、快適なベッドで死を待つことを嫌悪していたのかもしれません。
戦場でこそ死にたいという武士の気分を思わせます。
節子がいなくなってから、私には死への抵抗感がなくなりました。
昨日も駅のホームで、電車に吸い込まれそうになりましたが、ある意味での死へのあこがれがどこかに芽生えている気もします。
注意しなければいけません。
節子がいなくなってから、改めて自分を取り戻すと、実のところ「暇で暇で仕方がない」という気分に陥っています。
最近は正直に、そういう気分を吐露するのですが、誰もわかってくれません。
時に時間破産するほどに、時間的な余裕は一見ないように見えるからです。
ですが、心底、正直に「暇で暇で仕方がない」のです。
忙しく心身を動かすのは、暇だからなのです。
これに関しては前にも書いた記憶がありますが、何か自ら意図的に新しいことを始めようと思うのではなく、誰かに誘われたからとか、誰かに頼まれたとか、といった受け身での活動は、暇の意識を埋めてはくれません。
しかし、かといって、自分で何かをやろうという気分が、節子がいなくなってから全くと言っていいほど起こっては来ないのです。
やったところで、何の意味があるのか、という思いがどこかにあるからです。
そういう状況にあるということは、たぶん生きているとは言えないのかもしれません。
パスカルが「完全なる平穏は死だ」というように、ただただ流れに任せて生きるということは、生きているとは言えないのかもしれません。
まあそういう意味では、最近の日本人のほとんどは、生きていないような気もしますが、私もその一人になっているのです。
しかし、最近、私自身、少し気分が変わってきたような気配を感じます。
再び生きようという気が、どこかに芽生えだしているのです。
その気配のせいか、私のまわりで、最近いろんなことが動き出しています。
いささか他人事でおかしなことを書いているような気もしましたが、これが最近の私の気分なのです。
生きていないと死ねません。
ですから、死ぬためにもう一度生き返ろうとしているのかもしれません。
何だかとても誤解されそうなことを書いてしまった気もしますが、まあ素直に受け止めてもらえるとうれしいです。
要は元気だということです。
昨日書いたことを、重ねて少し違った視点で書いただけのことです。
自らを鼓舞しなければ、走りだせないのはちょっと情けない話ですが、走り出し方がどうもわからなくなっているのです。
節子の不在が、その理由なのですが。
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