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2016/04/18

■節子への挽歌3151:死に向かう生き方

今日、お会いした方の子どもさんたちは、若い時代、お一人は摂食障害、お一人は自傷行為傾向が強かったそうです。
現われ方は違いますが、いずれも「死に向かう」志向が感じられます。
いまはおふたりとも、それを克服されているようですが、ご両親のご苦労も多かったと思います。
しかし、そんなことはおくびにも出さず、その方はお仕事のかたわら、ボランタリーな社会活動に取り組まれています。

その方とは、ある人を介してフェイスブック友だちになったのですが、一度、私に会いたいと湯島のサロンにご夫婦ともども参加してくださいました。
とても自然なご夫婦で、今日、お話を聴くまでは、そんな背景があるとは知りませんでした。
改めてボランティア活動というのは、普通の生活の中から自然とわき出てくるものなのだろうと思いました。
いかにもボランティア活動をやっているという方とは全く違うものを感じます。

ところで、人の生と死はまさにコインの裏表どころか、同じものかもしれないという気が、最近してきています。
死を志向するとは、まさに生を志向することなのかもしれません。
生を意識すればこそ、死が意識されてくる。
私たちはふだん元気な時な時には、生きていること自体への意識はありません。
朝起きて、生きていることへの感謝の気持ちが浮かんでくることは、私の場合はありません。
それが当然だと思うからです。
しかし、節子は違いました。
朝起きると、ああ今日も1日が迎えられたと感謝していましたし、寝る時も1日の生に対して感謝していました。
節子には、死が見えていたのかもしれません。
私も同じような感じを持っていましたが、死への感じ方は違っていました。
どこかで死を直視せずに、節子は治るという思いに覆われていました。
いまにして思えば、勝手な妄想だったかもしれません。
そこには、もしかしたら「生の意識」さえなかったのかもしれません。
いまから思うと悔いがたくさん浮かんできます。

死に真剣に向かうことは、生に真剣に向かうこととつながっているのかもしれません。
節子の病気の相談をさせてもらった知人の2人の医師から、「死に方の問題です」と言われて、ショックを受けて、おふたりとの付き合いをやめてしまったという体験があるのですが、おふたりが言いたかったのはこういうことだったのかもしれません。
しかし、私にはやはり表現が間違っているような気がします。
やはり「生き方の問題」と表現すべきでしょう。
真摯で誠実な生の先にこそ、輝くような生がある。
そして、その生の一部にきっと「死」があるのです。
たとえたどり着いたところが「死」であったとしても、生を誠実に生きたということには変わりはない。
まだ十分には整理できていませんが、最近そんな気がしています。

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