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2016/04/18

■節子への挽歌3150:心がだんだんなくなってきているのかもしれません

節子
昨日は朝早くから出かけなければならず、ホームページの更新もブログも書けませんでした。
節子がいた頃は、何が何でもホームページの更新は日曜日にやっていましたし、ブログも毎日書いていましたが、最近は、無理をせずに、「まあ、いいかっ!」という気分で寝てしまうようになりました。

昨日はいろんな用事の後、「心トリートセミナー」を受講しました。
受講というよりも、そういうセミナーをやっている友人か、一度体験してみて、コメントしてほしいと言われたのです。
ほかの友人たちとも一緒に参加したのですが、私はどうもその枠に入りません。
最初に「性格は変わると思いますか?」と質問されました。
私以外の人は「変わる」と答えましたが、私は「変わらない」と答えてしまいました。
そもそも性格など変える必要はないと思っているからです。
ニーバーではないですが、変わるものは変えればいいですが、変わらないものはそのまま活かせばいいというのが私の考えです。
まあきわめて自己肯定的なのです。
実は、心トリートの目的は、自己否定感を克服して、自分を肯定的に生きるようになることを目指しているもののようです。
本性を抑えている世渡りのための「よろい」も、私にはあんまりないようですし、自己肯定感を引き出すにも、もともと自己否定感がないために、配布されたワークシートがうまく書けませんでした。
困ったものです。
実は、友人はそういう私であることを知って、被験者に選んだのですが。
果たして役に立ったでしょうか。

それにしても、やはり私は社会から脱落しているようです。
最近、そう自覚させられることが多いのです。
昨日も、参加した仲間からは「宇宙人」と言われたり、絵に描いたら、私は地に足ついていない浮遊的な存在になっていました。
そんなはずはないのですが、自覚している私も私なら、外から見える私も私でしょうから、それも含めて素直に受け入れなければいけません。
まあ、節子が苦労したわけです。

しかし、昨日の友人の話を聞いて、普通の人は、先天的な本性と後天的な性格との大きな乖離の故に、その間にある被膜のような「こころ」が痛んでいるというのですが、私の場合、どうも本性が強いようで、痛んでいないのかもしれません。
いや心がだんだんなくなってきているのかもしれません。
心がないとしたら、トリートできるはずもありません。
あんまり「いい被験者」ではなかったような気がします。
しかし、私自身はいろいろと気づくことはありました。
まだ頭の方は作動しているようです。

さて、今日もこれから、ある人と会いに行きます。
我孫子に来てくれると言うので、駅前で会うことにしました。
我孫子である集まりをやりたいという相談です。
さてどんな話になりますやら。
本当は畑に行きたかったのですが、今日はいろいろあって無理そうですね。

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