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2016/04/19

■節子への挽歌3152:生のもろさ

節子
熊本周辺での地震はいまなお続いていて、死者も40人を超えました。
突然の死に見舞われた方への深い哀悼の念とともに、改めて「生のもろさ」を感じます。
生きるということは、実はたくさんの幸運に支えられているのです。
おそらくこの地震で、生と死を分けたのは、ちょっとしたことだったのではないかと思います。
少し大きな視野で捉えれば、このような地震が、私が住んでいる我孫子で起こってもおかしくないわけで、その意味では私自身もまた、今回の死者のみなさんたちとは紙一重のところにいるわけです。
生とは、実にもろい存在で、むしろ「生きていること」がいわば「僥倖」なのかもしれません。
改めて、生きることへの感謝の念を持たなければいけないという気がしています。

生のもろさを実感したことはもう一つあります。
私には孫がいないのですが、娘が来月、出産する予定なのです。
不妊治療のおかげなのですが、それでも高齢出産ということもあり、実際に生まれるまでは不安が絶えません。
娘たち夫婦の出産に至る話を聞いて、子どもが生まれるということはこんなに大変なことなのだと、私は初めて知りました。
恥ずかしながら、私は娘たちの出産も子育ても、ほぼすべて節子に任せてきてしまったのです。
ですから出産に関しては、知識すらほとんどなかったのです。
母親がいないため、娘はいろいろと苦労していますが、私には何もできません。
節子がいたら、彼らもこんな苦労はしなかったかもしれませんが、人が生を得るということがこんなに大変なことなのかということを、私は知りませんでした。
実に恥ずかしい話ですが、おそらく節子は大変だったのでしょう。
母親の支援を受けたとはいえ、夫である私の支援は、いまから思えば何も受けていなかったのかもしれません。
もし節子が今いたら、平謝りしなければいけません。
謝ることができないのがとても残念です。

生は実にもろいものなのでしょう。
そして、運に大きくゆだねられている。
そうであるならば、やはり私ももっと真摯に生きなければいけません。
誠実には生きているつもりですが、真摯さにはかなり欠けているのは自覚しています。
改めなければいけません。
さてどうするか。
まだ答えが見つかりません。

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