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2016/04/20

■みんなのものは誰のものでもない?

一昨日書いた「みんなのものパラドクス」に関連して、思い出したことがあるので、続きを書くことにします。

もう20年以上前だったと思いますが、東京の入谷の住宅地の一画に、たしか都有地がありました。
周囲には勝手に誰かが入れないようにと、フェンスが張り巡らされていました。
都有地なので、年に何回かは雑草が刈られていたと思いますが、夏になると野草が生い茂り、やぶ蚊も発生していたかもしれません。
そもそも地域住民にとっては、見栄えも悪く迷惑な存在だったと思います。

そうしたなかで、ある人が妙案を思いつきました。
まずは周辺の住民たちで、その雑草を刈り取ることを管理事務所に申し出ました。
都にとってはありがたいことなので、鍵を貸してくれました。
そして住民たちは、みんなで草刈りをして、鍵を返しました。
それだけなら何ということはない話です。
しかし、それを思いついた人は、こっそり鍵のコピーをつくってしまったのです。
従って、それから先は住民たちが、その塀の中に自由に入れるようになったのです。
そしてそこにみんなの花畑や農園をつくることにしました。
その写真を私は、この話をしてくれた人からもらっていたのでどこかにあるはずですが、見つからないのが残念です。

都の管理者は年に1回くらいしか来るか来ないかですので、気が付いた時にはきれいな花畑や農園になっていたわけです。
まさかそれをこわすとは言えないでしょう。
都は草刈りの費用がいらなくなり、「みんなの土地」はみんなでうまく活用されたわけです。
めでたしめでたし。

私は我孫子に住んでいます。
これも20年ほど前になるかと思いますが、我孫子駅の北口駅前の開発途中に、駅のすぐ前のかなりの広い面積の市有地が空き地になりました。
我孫子市民のみんなの土地ですので、我孫子住民に開放するのが良いと思いましたが、結局、入谷と同じようにフェンスが張られてしまいました。
せめてそこを自転車の置き場にでもしてくれれば、住民には好都合でしたが、次の計画が動き出すまでフェンスに囲われていました。
みんなのものだから、誰かが勝手に利用するのはダメなのです。
つまり「みんなのもの」とは、昨今の行政の仕組みの中では、だれも使えないということでもあるわけです。
「みんなのもの」とは、要するに「誰のものでもない」のです。

昨夜、湯島に来た人は数年前に会社を辞めて起業しました。
行政は、今回の熊本地震のような非常時のために、多くの非常食を備蓄しています。
幸いに非常事態が起こらないで、賞味期限が近づくと、それらは廃棄されます。
まだ食べられる膨大な食べ物が廃棄されるという、無駄な話です。
だとした、賞味期限直前のものを世界の飢餓地域に提供したらどうかと考えたのです。
最近話題になっているフードバンクの発想です。
大成功するはずでした。
しかし見事に失敗して、彼の会社は破産しました。
なぜ失敗したか。
行政が廃棄する膨大な非常食はみんなの税金で買ったものなので、行政の内部で処分しなければいけないのです。
つまり、役立てられると思っても、勝手には企業には提供できないのです。
それで費用をかけて廃棄処分するしかないのです。
それで彼の構想は挫折してしまいました。
行政のそうした仕組みを知って、彼は怒りに震えたそうですが。
ここでも「みんなのもの」は「誰のものでもない」ことがわかります。

さてさて困ったものです。
どうしたらいいのでしょうか。
「みんなのもの」って、一体何なのでしょうか。
私のテーマは、「コモンズの回復」です。
コモンズは、政府や国家という制度とは実はなじめない概念なのです。
そう考えると、「公共」という言葉のおかしさに気づきます。
「公」と「共」とは、発想の原理が全く違うのです。

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