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2016/04/02

■節子への挽歌3134:理解を超えた関係の居心地よさ

節子
人と理解し合うことは至難のことです。
私は学生の頃から、人は理解しあえないものだと確信していましたから、理解しあおうなどとはあまり考えたことがありません。
違いを知って、受け入れることができるかどうかさえ、しっかりしていれば、理解できていなくても問題は起きません。
逆に理解していると思えば、いつか裏切られることがあるかもしれません。
裏切られるということは、自らの理解が間違っていたということでしかありません。
人は理解しあえないものだと思っている私には、あまり裏切られたという記憶がないのです。
まあ時に、裏切られたと思うこともあるのですが、その責任は自らにあると思えますので、腹立ちもまた自らに対してです。
残念ながら、未練がましく少しひきずってしまうことはないわけではありませんが。

最近、つくづく、このことを感じます。
理解しあえると思ってはいないものの、あまりに認識が違うと疲れてしまいます。
私自身、もしかしたら「生きる文法」が社会的な平均から大きくずれてしまっているのかもしれません。
そうでなければ、これほどのすれ違いを味わうこともないでしょう。
そんなことがあまりに多いので、最近はいささか疲労気味なのです。

ところで、節子とは理解しあっていたでしょうか。
たぶんその答えはノーでしょう。
お互いに理解などできていなかったのです。
しかし、理解を超えて思考の一体化ができていたような気がします。
お互いに根本のところで認め合っていたと言ってもいいでしょう。
それを確信できたのは、私が会社を辞めると節子に言った時でした。
一言の異論もなく、そしてさほどの間をおかずに、節子はそれを受け容れてくれました。
それも、極めて積極的に、です。
あの時ほど、節子に感謝したことはありません。
もしかしたら、あの時に、私は節子のすべてを受け容れたのかもしれません。

理解しあう必要のない関係というものがあるのです。
それがどれほど大きな支えになるかは、それがなくなってからはじめて気づくのかもしれません。
理解を超えた関係の居心地よさは、もう体験できないと思うととても寂しいです。

しかし行き違いの多さには、辟易します。
疲れる毎日です。

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