■「みんなのもの」パラドクス
近くのNさんの庭には、この季節、見事なチューリップの花が咲き誇ります。
わが家から駅に行く途中の坂道にあるのですが、その坂道を上っていくときに必ず、そのチューリップの花畑が目に入ります。
私もいつもその恩恵を受けている一人です。
今年も見事なチューリップを楽しませてもらっていましたが、つい数日前にそこに手書きの注意書きが貼られました。
「花を取らないでください、みんなで鑑賞しましょう」
Nさんは道を行く人に見えるように、むしろ道に向けて花壇をつくっていますので、その気になれば簡単にとることができる場所なのです。
心無い誰かがとってしまったのでしょう。
それはとても残念なことです。
私も、同じ体験をしたことがあります。
道沿いの花壇をつくっていますが、育ってきた芝桜が根こそぎなくなっていたこともあります。
ちょっと残念でしたが、まあ私よりも大事に育ててくれればいいかとも思いました。
花壇の整備は、それなりに大変なのです。
Nさんのチューリップで、私が一番悲しかったのは、花がとられたという事実よりも、注意書きが貼られたことでした。
せっかくきれいなチューリップを見ても、その横にそんな張り紙があったら、心癒されることはないからです。
たぶん注意書きを貼るときにNさんは躊躇したでしょう。
Nさんはとても花好きで、時々、玄関に花を置いていることがありました。
Nさんは、それを自由に持って行ってくださいと言っていたのです。
そういう人ですから、注意書きを出すことが一番悲しかったのはNさんのはずです。
さて長々書きましたが、みなさんはどうお考えでしょうか。
注意書きは貼るべきだ。
とられないように柵をするべきだ。
そうお考えの人もいるでしょう。
でも私は、花を取られても注意書きは出すべきではないと考えます。
なぜなら花は「みんなのもの」だからです。
しかし、みんなのものであれば、私のものでもある。
そう考える人がいてもおかしくありません。
念のために言えば、Nさんのところの花は、もちろん法律的にはNさんの私有財産です。
しかし、Nさんは、自分だけで楽しむのではなく、みんなに楽しんでもらおうと、あえて自分の家に向けてではなく外に向けて花壇をつくっているのです。
Nさんは、自分のチューリップを「みんなのもの」と思っているわけです。
つまり、「みんなのもの」だから自分だけのものにせずにみんなで鑑賞しようという考えの一方で、「みんなのもの」であれば、「自分のもの」と考える人もいるわけです。
しかし、自分のものとした途端に、それは「みんなのもの」という考え方を否定することになります。
これはまさにパラドクスです。
「みんなのもの」は「みんなのもの」ではないという「みんなのものパラドクス」です。
ここにこそ、現代社会の問題を解く要の思想が込められていると私は思っていますが、まあそれはまたいつか書くことにします。
昨日、駅から帰宅する途中、偶然にNさんと会いました。
チューリップがきれいですね、とお礼を言ったら、Nさんが話しだしました。
あんな注意書きを出したくなかったの、でも3回も取られてしまい、それを見ていた人から勧められて出したのです、と、まるで私が注意書きがなければいいなと思っていたことを知っているような話をしたのです。
たぶんNさんは注意書きを出しながらそれがずっと気になっていたのでしょう。
Nさんのお気持ちがよくわかります。
さてこのパラドクス、あるいはジレンマはどう解決したらいいか。
みなさん、お暇だったらぜひお考えください。
チューリップの話ではなく、現代社会の大きな問題につながる話かもしれませんし。
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