■悦子への挽歌3135:困難は克服するためにある
節子
先日久しぶりに会った友人から、もう9年近くですか、よく生き抜けられましたね、と言われました。
私が節子に依存していたのを知っている人ですが、まあ、それはそうですが、こういうことは自分で言う言葉であって、他者からはあんまり言われたくありません。
しかし、なぜか私の場合、よく言われるのです。
困ったものですが、それほど私は自立していないということなのでしょう。
昨日、テレビの「名探偵ポワロ」を見ていたら(このドラマはストーリーとしては退屈なのですが、ホームズものと同じで、観なければいけないという意識が植えつけられていて、何回目かの再放送なのになぜか見ているのです)、秘書のミス・レモンがポワロに名言を吐きます。
それが、「困難は克服するためにある」です。
「克服」を「楽しむ」と言い替えたほうがいいように、私は思います。
人は何のために「困難」を克服するかと言えば、克服した後の喜びのためでしょう。
高校生時代、奥多摩の山によく登りましたが、苦労して登った時の喜びは何とも言えません。
困難のない人生など、たぶん退屈でしょう。
ですから、困難は多いほど、人生は豊かであるともいえるでしょう。
節子を見送った後の私の人生は、困難のなかにあったのでしょうか。
たぶんそうではありません。
しかし、そうとも言えるかもしれません。
確かに、よくぞ「生き延びた」とも言えないこともありません。
足元がしっかりしだしたのは、たぶん5~6年たってからです。
娘や友人がいなければ、どうなっていたかわかりません。
生き方が変わってしまっていたかもしれません。
つまり、友人たちが言う意味での、「生き抜けなかった」可能性はあるでしょう。
ちなみに、ポワロのドラマの魅力の一つは、ポワロの相棒のヘイスティングスの人の良さです。
ヘイスティングスには、困難を楽しむ姿勢はないかもしれません。
なぜなら彼には、困難などないからです。
つまり、困難の存在にさえ気づかないほど、人がいいのです。
私には真似できない生き方ですが、ああいう人が節子には相応しかったのではないかなと、いつも思いながら、観ています。
節子には、いささかの困難に突き合せすぎたかもしれません。
そんな気がすることも、ないわけではないのです。
でもまあ、節子は良い人生だったと言ってくれました。
そういうふとことが、遺された人には残ります。
私は、その言葉を誰に言えばいいのでしょうか。
うまく言えるといいのですが。
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