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2016/05/13

■節子への挽歌3175:人生は「ゲーム」なのかもしれません

節子
20年ほど前の映画ですが、マイケル・ダクラス主演の「ゲーム」という作品があります。
テレビで放映されていたので、それを観てしまいました。
実業家ニコラスは48歳の誕生日に、弟」から「ゲーム」の招待状をプレゼントされます。
そのうたい文句は「人生が一変するような素晴らしい体験ができる」というものでした。
そこからニコラスは、とんでもない事件に巻き込まれていく、という話です。
最後は、とんでもないどんでん返しです。
まったくといっていいほど、リアリティのない物語です。
途中で観るのを止めようと思いながらも、ついつい最後まで見てしまいました。

観終わって、ふと感じたのは、その物語のリアリティのなさではなく、私自身のいまの人生のリアリティのなさです。
もしかしたら、私もまた、誰かの演出のもとでのゲームを生きているのかもしれない。
そういう視点で過去を振り返ると、私の人生はいかにも空虚です。
いや、自分自身が実体のない存在のようにさえ、感ずることがある。

節子がいなくなってから、生きていることの実感が得られなくなってきているのですが、そればかりか、どうも今の私が本当に生きているのかどうかが、時々、危うくなるのです。
ふと、自分がやっていることを、夢のように感じてしまうのです。
最近私に会ったことのある人は気づいているかもしれませんか、「まっ、いいか」と言ってしまうことが増えています。
深刻に悩むべき課題を前にして「まっ、いいか」。
放置していたら大変なことになりそうな時にでも「まっ、いいか」。
そんなことはありえないでしょうと友人に言われても「まっ、いいか」。
という感じです。
そして、そろそろ彼岸に旅立つかもしれないが、それも「まっ、いいか」というわけです。
現世への未練は、ほとんど吹っ切れてきました。
そのせいか、現世での感動も薄らいできてしまった。

誠実さを投げているわけでもないのです。
大きな視野で考えれば、個人の犠牲などは瑣末に感ずることもあります。
だからといって、個人をおろそかにしているわけではないのですが、個人としての自らを相対化できるようになってきたのです。
昨日書いたこととちょっと矛盾するような気もしますが、いずれもいまの私の素直な気持ちです。

ゲームであれば、いまの人生に執着しないでもいいでしょう。
ゲームオーバーしたら、また最初からゲームができるのですから。
しかし、次のゲームにも節子や家族や友人知人は登場してほしいです。
顔も見たくない人もいないわけではありませんが、そういう敵役もいないとゲームは豊かにならないでしょう。
ひどい映画でしたが、いろんな刺激を受けました。

実は今日は、ちょっと体調が悪くて、怠惰に過ごしていたのです。
明日は回復するといいのですが。

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