■節子への挽歌3166:永遠の安らぎとは死なのか
ヨハン・ガルトゥングの「紛争解決学入門」という本を読んでいたら、こんな文章が出てきました。
ちょっと気になって、メモをしておきました。
生命をもつものだけが目標をもっている。その本を読んでいる時には、あまり消化できずにいました。
目標をもたなくなると、生命は終わる。
死ぬ人間がもつ最後の目標の1つは、無目標そのもの、永遠の安らぎであろう。
目標はわれわれを苦しめる。
目標を達成し、満足するためにわれわれが始める活動には限りがない。
いくつかの違和感があったからです。
特に、「目標をもたなくなると生命は終わる」ということには、大きな違和感があります。
前にも書きましたが、生命は「目標」とは次元の違う話で、それ自身が「目標」そのものでもあるからです。
それに、永遠の安らぎは「死」と同義語です。
安らぎがないからこそ、生の躍動があるからです。
だからといって、生の目標が安らぎであるとは、到底思えません。
私は、最近、退屈で退屈で仕方がないのです。
節子がいなくなってから、ずっとそうです。
退屈と暇とは、私には同義語のような気がしていますので、
時々、暇で暇で仕方がないという発言をしてしまいます。
どうもそれが、相手には伝わりません。
退屈で暇であるということは、「安らぎ」でしょうか。
少なくとも私には違います。
退屈なこの8年の間、安らぎはあったでしょうか。
たしかにこの1年ほどは、比較的、安らぎの心境になることがあります。
世界が見えてきたような気がしてきているからです。
しかし、それが果たして「安らぎ」といえるかどうかは疑問です。
安らぎがないことと生の躍動は、あきらかに違います。
退屈で暇で、しかも安らぎもない。
なにが欠けているのでしょうか。
昨日、瞑想家にお会いしました。
といっても、瞑想が話題になったわけでも、彼が自らを瞑想家といったわけでもありません。
瞑想どころが様々な活動もされている人で、その関係で私とも会ったのだと思います。
ただ、話の所々で、「無我」という言葉が出てきました。
「無我」ということばが、もしかしたら、ガルトゥングの言葉を消化する鍵かもしれません。
ところで、節子はいまは「永遠の安らぎ」を得ているのでしょうか。
そんなことはないでしょう。
私を待っているはずですから。
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