■節子への挽歌3174:生と死は人称を超えています
節子
今日、若い在家の僧侶がやってきました。
前から時々お会いしているのですが、このままだと日本のお寺は消えていくという危機感を背景に、お寺を拠点とした活動に取り組みだしています。
私は、節子の死と孫の生を体験して、生と死とは深くつながっていることを感じました。
それは、人の繋がりを復活させる契機なのです。
父が亡くなった時に、葬儀は人の繋がりを再確認しあう場であり、人の繋がりを広げる場であると感じたことを、どこかに書いたことがあります。
そのことを思い出しました。
生と死は、決して、個人の事件ではないのです。
生と死には「一人称」しかないのですが、それが「複数形」であり、言い換えれば「人称」を超えているのです。
最近そう思えるようになってきました。
夜、在日のガーナ人の若者が来ました。
彼は weasone というNGOを主宰しています。
それをどう展開していくかの相談に、時々来ているのですが、今日もまたweasoneの理念の話になりました。
one(一人の存在)としてのwe(みんな)。
we(みんな)が凝縮されたone(一人の存在)。
まさに、華厳経のインドラの網ですが、それが生と死には象徴されているような気がします。
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