■節子への挽歌3169:コモンズの悲劇
節子
この2日間、ちょっと疲れてしまっていました。
まあいろいろとありますが、また人間きらいに陥りそうです。
それにしても、最近の日本には「礼儀」というものがなくなってきているような気がします。
湯島をいろんな人たちに開いてはいますが、がっかりすることが多いのです。
親しき仲にも礼儀ありですが、親しくないのに礼儀もわきまえない人が増えています。
節子は、そういうのがとても嫌いでした。
横から見ていると、そういうことがよく見えたのでしょう。
私も、最近だんだんそういうふうになってきています。
湯島は、できるだけ多くの人たちに開放したいと思っています。
一応、湯島の利用ルールというのがあるのですが、きちんとそれを読んでくれていない人が多いのです。
そのルールでは、コモンズの悲劇ならぬ、コモンズの幸福を目指したいと最初に書いてあるのですが、時々、それが破られます。
もっともほとんどの人は、ルールを守ってくれていますが、時に信じられないような行動をする人もいるのです。
そのくせ、たぶんその人は、それに気づいていないのでしょう。
そういう人には開放したくないのですが、使う人を選んでしまえば、それはコモンズ空間にはなりません。
そこが悩ましいところです。
節子がいたら、私も愚痴をこぼせるのですが、いまはそんな話は誰にもできずに、ストレスがたまります。
それで気づいたのですが、節子がいた頃の私にストレスがなかったのは、節子がいたからだったのでしょう。
いまはすべてが私の中にたまってしまうので、時々、何やら人嫌いになるわけです。
その一方で、見事な言動に感動させられる人もいます。
形式的な礼儀ではなく、洗練された美しい言動をする人に接すると幸せになります。
しかも、そういう人は、むしろ若い世代に多いのです。
他者から見たら、私も礼儀知らずの非常識で醜い言動をしているのかもしれません。
時々、娘から指摘されますが、あんまり注意してくれる人もいません。
その人に似た人たちが集まるということが事実だとしたら、自らの言動をまずは反省しなければいけないのかもしれません。
でもまあ、私だったら絶対にそんなことをしないというような言動に出会うことがどうも最近増えています。
湯島を開放しすぎているのかもしれません。
昔ある友人から、付き合う友だちをなぜおまえは選ばないのかといわれたことがあります。
そう言う生き方をしていると、時に人間きらいになるのですが、大きな目で見たら、きっと人間好きになっている度合いの方が大きいでしょう。
社会には、実にさまざまな人もいる。
不快な言動の人も、受け入れる寛容さがほしいです。
この記事を書いて、少しすっきりしました。
まだまだ未熟です。
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