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2016/05/07

■節子への挽歌3167:連休と無縁の暮らし

節子
わが家では、連休は、「外部の世界」の話であって、わが家とは無縁のことなのですが、節子がいなくなってからは、ますます連休という感覚はなくなってしまっています。
ただ世間がお休みなので、在宅時間が増える期間ではあるのですが、なぜか今年は、それもまた普段と変わりない状況でした。
私の付き合う人たちが、「連休の恩恵」を受ける人たちではなくなってきているのかもしれません。
いずれにしろ、世間は連休ムードですが、わが家は普段と違うことは、何一つありませんでした。

会社を辞めて実感したことの一つは、「国民の休日(legal holiday)」が赤字になっているカレンダーの「暦」は会社で働く人たちのものだということです。
生活の立場から言えば、季節の暦だけで十分でしょう。
さらに歳をとってくると、週という概念もあまり意味がなくなってきます。
大きな季節、それもカレンダーの暦からは自由な、自然の状況に合わせた季節だけで十分なような気がします。

年齢も、あまり重要ではないという気がしてきます。
先日、一緒にあるプロジェクトに取り組んでいる仲間たちが、私が5月生まれであることを知って、誕生祝いをやろうかと言ってくれました。
そういうことに関してだけは素直でない私は、「なんで誕生日を祝うのかがわからない」と対応してしまったのですが、人はなぜ誕生日を祝い、自らの年齢を確認しなければいけないのか、あんまり理解できません。
たしかに、まだ生命的に安定しない乳幼児や児童の場合は、誕生日を祝うことには意味があります。
しかし、それは15歳くらいでもういいでしょう。
人は15歳くらいでもう一人前だと思いますので、誕生日や年齢も15歳以降は、毎年数えることもないような気がします。
国民を管理する政府にとっては、それでは「管理」できないのでしょう。
しかし、そもそも人を管理することなどできるはずもないし、管理されたくもありません。

とまあ、最近は、だんだんこういう考えになってきているのです。
歳を重ねるのが嫌だ、ということではありません。
自分自身の意識として、誕生日は一つの節目にはなりますので、誕生日そのものは否定しませんが、誕生日を祝うことは、もうやめようと思います。
そもそも記念日を祝う発想が、私にはもともと乏しいのです。

節子はそうではありませんでした。
節子は、誕生日を祝う派でした。
そして63歳の誕生日が、生きる目標になっていました。
それが達成できなかった。
もしかしたら、私の誕生日嫌いは、そのことに起因するのかもしれません。

連休を楽しんでいる様子が、フェイスブックでたくさん届きます。
自分が、社会から大きく脱落しているなと、つくづく思います。

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