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2016/05/10

■節子への挽歌3172:素直に喜べない気持ち

節子
病院に行って、母子に会ってきました。
峰行の両親や兄妹も来ていましたが、女性たちと男性たちとの表情や話しぶりには微妙な違いがあります。
私自身、正直、声を上げるほどの感激はないのです。
子どもと孫とでは、やはり違うのかもしれません。
あるいは、私が変人なのかもしれません。
友人たちから、孫の話をよく聞かされていましたが、そのたびに心がかたくなになってきていて、いまさらその心の殻を破れないでいるのかもしれません。
素直に喜べない私がいるのは、なぜでしょうか。

孫ほどかわいいものはないと聞かされるたびに、孫のいないさびしさを感じていました。
だから、仮に孫が生まれても、絶対に他者には喜びの気持を表したくないと思っていました。
これは、孫だけの話ではありません。

他者の喜びは、また自らの喜びでもあるはずです。
しかし、実際には必ずしもそうではなく、人には羨望の念や負い目を感ずる弱さもあります。
孫のいないことや、伴侶を喪ったことを通して、私自身、いろんな複雑な思いを積み重ねてきています。
そんななかで、いつのまにか、自分の喜びを他者に伝えることの罪深さを感ずるようになってきているのかもしれません。
もしかしたら、ひがみかもしれませんし、性格のゆがみかもしれません。

さらに、コムケア活動ということを通して、さまざまな人たちと付き合ってきている中で、私自身の、喜びや幸せの感じ方が違ってきているという面もあります。
宮沢賢治の、すべての人の幸せこそが自らの幸せだということが、最近はとてもよくわかるようになってきています。
ですから、自らだけの幸せは、むしろ素直に喜べなくなってきているのです。

娘たち夫婦の不妊治療の大変さも身近に感じています。
彼らは、幸いにも子どもを授かれましたし、私も孫を授かれました。
しかし、授かれない人もいる。
それを知っていて、どうして喜べるでしょうか。

しかし、母子ともに、元気な姿は見ることは、幸せなことです。
そこで素直に喜べばいいのですが、なぜかとても哀しいさびしさが、どこかにあるのです。
今日もまた、複雑な気持ちに襲われて、とても疲れた1日でした。

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