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2016年6月

2016/06/30

■節子への挽歌3218:「それでも明日になれば太陽が昇ってくる」

節子
とんでもない状況に陥ってしまいました。
いろんなことをやっているうちに、どうもまた、自分のキャパシティを超えてしまったようです。
節子がいた頃から、時々やってしまっていたことですが。
いつものように、「それでも明日になれば太陽が昇ってくる」と開き直るしかありません。
困ったものです。

しかし、明日になって昇ってくるのは太陽だけではありません。
いま抱えている課題もまた、「成長」してのしかかってくるわけです。
さてさてどうするか。
と書いている間にも、いろんな電話がかかってきたり、メールが届いたりします。
今日もまたハードな1日になりそうです。

でもまあ、「それでも明日になれば太陽が昇ってくる」。
そしていつか、朝日が昇らない世界へと行けるでしょう。
いやはや、現世は疲れます。

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2016/06/29

■緊急出版『子どもたちを戦場に送らない勇気』ミニ講演会のご案内

安倍政権のもとで、日本の政治状況は大きな岐路に直面しています。私たちが70年にわたって拠りどころにしてきた憲法さえもが、正当な手続きで改正されるのではなく、無視されつつあるのが現実です。このまま安倍政権の暴走をゆるしていいのでしょうか。

さまざまな問題が露呈されつつある今こそ、自由で平和な暮らしができる政治体制を築くために動き出すべきだと、長年、在野で民主主義を研究してきたリンカーンクラブ代表武田文彦は考え、このたび『子どもたちを戦場に送らない勇気』(WAVE出版)を緊急出版しました。書店に並びだすのは7月4日頃ですが、それに合わせて講演会を下記の通り開催します。講演会といっても、著者とひざ突き合せて話し合うスタイルですので、どうぞお気軽にご参加ください。

同時に、しばらく会員活動を休止していたリンカーンクラブの活動も再開します。

○テーマ:安倍政権の暴走を止めるためには、どうすればいいか
○講 師:武田文彦(リンカーンクラブ代表)
     緊急出版に込めた思いと、これからのリンカーンクラブの活動計画を語り、
後半は参加者との話し合いを予定しています。
○日 時:2016年7月9日(土曜日)午後2時~4時半
○場 所:湯島コンセプトワークショップ
     地図 http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○会 費:2000円
参加者には『子どもたちを戦場に送らない勇気』(定価1620円)を贈呈します。
     内容紹介 http://www.wave-publishers.co.jp/np/isbn/9784866210186/
○主 催:リンカーンクラブ
○申込先:info@lincolnclub.net

以上、よろしくお願いいたします。

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武田文彦
◎──1944年北海道岩見沢市生まれ。1967年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。1974年中央官庁への情報サービス会社設立、同代表取締役。1977年「究極的民主主義研究所」を設立し所長を務めながら1978年以降は「リンカーンクラブ」を併設して政治学者、政界の重鎮らを招き民主政治の研究を重ねている。2006~2014年慶応義塾大学大学院法学研究科講師。「月刊ベルダ」に現行政治への歯に衣着せぬ批判論文を2005年から連載している。
◎──著書に『赤ペンを持って憲法を読もう』(かんき出版)、『無党派市民のための究極的民主主義宣言』(ビジネス社)、『民主主義進化論(上・下)』(竹内書店新社)、『代議士不要の政治』(大陸書房)などがあり、雑誌にはA.トフラーとの対談のほか「みなし戦争経済論」「直接民主主義」「重脳主義」などをテーマに多数掲載。
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■節子への挽歌3217:節子が心配しているようです

節子
朝、畑に行ってきました。
一昨日、時間の合間に行ってみたら、とんでもない状況になっていたからです。
1週間ほど、放置していたら、野草に覆われ、せっかくの野菜も元気をなくしていました。ミニトマトだけは実を成らせていましたが、ナスもきゅうりもいささか悲惨な状況です。
今朝は、時間がなかったのと昨日の雨で、中に入るのさえ大変でしたので、野菜に声をかけて来ただけです。
土曜日までたぶん畑作業はできないので、もしかしたら今年は野草に軍配が上がるかもしれません。
せっかく10種類を超える野菜の植え付けをやったのに残念です。

花壇もまた野草に覆われだしていました。
百日草が育ってきていますが、野草には負けています。
種を蒔いていた苗床はやはりだめでした。
自然と付き合うのは、やはり誠実でなければいけません。
日本人の正直さや誠実さは、長年の農業の営みのおかげだろうな、最近、改めて確信します。

昨日は、久しぶりに頭脳が動き出しました。
やりたいことがまた見つかってしまいました。
時間配分がどう考えても成立しないのですが、動くときには動かないといけません。
最近はお墓にも行けずにいますので、節子も両親もどう思っているでしょうか。

そういえば、今朝の明け方、節子の夢を見ました。
かなりリアルで、少しさびしい夢でした。
節子が泣いていたからです。
みんなに美味しいものをつくってやりたいのに、つくる元気が出てこない。
節子には、こちらの世界が見えていて、
私たちになにかをしてやりたいと思っているのかもしれません。
まあ、一応、質素ながらも、おいしいものは食べてはいるのですが。

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2016/06/28

■節子への挽歌3216:自分軸としての挽歌

節子
またしばらく挽歌を書けませんでした。
いろんなことに関わりすぎてしまったせいですが、関わることが毎日のように増えています。
25年前を思い出します。
会社を辞めて、何にでも自由に取り組めると思った途端に、多彩な世界が実に面白く現出したのです。
少しですが、あの頃のように世界が見えています。

もっとも当時の世界には輝きがありましたが、いまはそれはほぼ皆無で、問題だけが見えてきています。
私の年齢の問題だけではなさそうです。
あの頃はまだ世界に期待することがたくさんありました。
いまはほとんどそれらは消えかかってしまっています。
ともかく「人」がいなくなってしまった気がするのです。
退屈な時代になってしまった。
私には、暇で暇で仕方がない時代でもあります。

しかし、最近ちょっと違う世界に触れだしました。
先日は見事な若者にも会いました。
北陸からわざわざ合いに来てくれた若者もいました。
やはりまだ隠棲するわけには行きません。
また大失策をしてしまうかもしれませんが、今度はきちんと自分軸を外さないようにしようと思います。
そんなわけで、いま取り組みだしているいくつかの組織の立ち上げにきちんと取り組む気になってきています。
とりあえずは5つの組織です。
いずれも自分でゼロから立ち上げたものではありません。
誰かが相談に来て始まったものばかりです。
ですから私が主役ではないのですが、端役でもないのです。
さらに、5つのほかにもさらに5つ近い組織づくりの話もあります。
不思議なもので、5つと決めて動き出したら、その予備軍のような話が次々と舞い込むのです。

そんなわけで、挽歌を書かずに数日過ごしてしまいました。
明日からまた挽歌を復活させます。
組織の立ち上げにも、きちんと立ち向かうつもりですので、そのためにもやはり挽歌を書くことで自分軸を持てるでしょうから。

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■イギリスの悲喜劇は日本では起こらないだろうか

イギリスの国民投票によるEU離脱は、悲喜劇としか言いようがありません。
ジョンソンという政治屋の詐欺にあったとしか言いようがないでしょう。
EUを離脱すればEUに払っていた週あたり3億5000万ポンドの予算が浮くので、これを国民の保健サービスに回せるという、離脱派の公約が嘘だったことも判明しました。
事実を知らせずに、甘いことばで相手をその気にさせるという手法は、権力政治の常とう手段です。
離脱が決まった後、「EUって何だ」というネット検索が増えたという話は喜劇以外の何物でもありません。
みんなEUの意味も知らずに、離脱しようと考えたのです。
さすが、7つの海に船出したイギリス人の勇気は見上げたものですが、その代償は大きいかもしれません。

しかし、これはイギリスだけの話ではありません。
同じような動きが、アメリカでも起こっています。
トランプさんが大統領になるかもしれないという見方が日本でも広がっていますが、そんなことがあるはずはないと私は思っています。
イギリスに比べれば、アメリカの民主度は少しばかり高いと思っているからです。
イギリスでは、オルテガの言う「大衆の反乱」は起こり得ても、アメリカでは起こりようがないでしょう。

では日本はどうか。
日本は民度の高い国だと私はずっと思っていましたが、この数年の様子を見ていると、それは間違いだったかもしれません。
小泉郵政選挙は、まさに今回のイギリスのEU投票と同じでした。
以来、日本は変わった気がします。
投票した後、「EUって何だ」と騒ぎ立てるような国民になってしまった気がします。
郵政民営化を思い出せば、納得してもらえるでしょう。
あれで私たちはどれほどのものを失ったのか。
その評価さえ行われていません。
そしてTPPさえ国民は支持しているのです。
イギリス人を笑うわけにはいきません。

今度の参議院選挙は、後世の日本人から問われる選挙になるでしょう。
きちんと考えて投票したいと思います。
せめて18~19歳の若者たちと同じ程度には誠実に考える人が増えるといいなと思っています。
イギリスの悲喜劇を他山の石として。

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2016/06/25

■みんカフェ湯島6月の報告

今日の「みんカフェ」(みんなのゆる~いカフェ)は異色の組み合わせでした。
初めての方も2人参加してくれました。
一人は20代の若者ですが、実に見事と思える、20代を過ごしてきたWさんです。
さまざまな問題を解決しながら、いろんな事情で延期せざるを得なかった「目標」に向かって、いままた進んでいます。
彼の見事な生き方は、多くの若者たちにも聞かせたかったです。
私は、こんな若者がいるのだと、感激しました。
もしかしたら、若者は本当はみんな彼のようなのかもしれません。

もうひとりは、北陸に帰っていたIさんです。
彼女は数年前に私の前に現れ、私たちがやっている活動を手伝ってくれた後、故郷の富山に戻りました。
そのIさんが、予告なしに参加してくれたのです。
わざわざ新幹線で来てくれました。
今年から、彼女が目指していた仕事に関われるようになったそうです。
これほどうれしいことはありません。
久しぶりに会った彼女は、前とは違い、とても穏やかな表情でした。
彼女もまた、みずからの目標に向かって着実に進んでいます。

もうひとり飛び入り参加がありました。
サロンの後にお約束していた私よりもご高齢の女性ですが、
早目に来たので、参加してもらいました。
なんとベリーダンスをやっているそうです。
その話から、日本にはなぜ「ハグ文化」がないのだろうというような話になりました。

常連の4人も加え、今回も、ゆる~いカフェは気持ちのいいサロンになりました。
20160625


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2016/06/24

■節子への挽歌3215:支離滅裂な1日

節子
復調しました。
本が読めるようになったのです。
しばらく本が読めませんでした。
といっても、今日は読みませんでした。
ただ読めるようになっただけです。
それで、昔沖縄の人が送ってきてくれた本を探しました。
幸いにわが家の書庫から出てきました。
老後の転居予定先に、かなりの書籍は送っておいたのですが、節子がいなくなって転居をやめた後、また自宅に返送した中に運よく入っていました。
渡名喜明さんの「ひと・もの・ことの沖縄文化論」です。

昨日は沖縄の「慰霊の日」でした。
テレビで、平和の礎の前で戦争の思いを語っている人をみて、その後、安倍首相のスピーチを聞いたら、途端に気分が悪くなりました。
この人は果たして人間なのだろうかと思いました。
彼は、あの平和の礎の前に立ったことがあるのだろうか。
それで、渡名喜さんの本を読みたくなったのです。

平和の礎は、私も節子と一緒に行きました。
あれはまだ節子が発病していなかった頃なのでしょうか。
全く記憶がありませんが、明るい沖縄と悲しい沖縄があって、複雑な旅でした。
しかし、平和の礎を歩いた時には、思わず手をつないだことを思い出します。
なにかが迫ってくる気がしました。
それ以外の記憶はほとんどありません。
夢のような記憶があるだけです。

復調したのであれば、宿題に時間を割くはずなのですが、なぜか無性に外に出かけたくなりました。
じっとしていられなくなった理由は、英国がEUから離脱したというニュースのせいかもしれません。
世界が壊れだした。
そんな気がしてきました。
宿題などやっている時か、というわけです。
人間は極めて不合理な行動をとるものです。
庭の池に、ガマガエルが入らないように、網を張ろうと急に思いつきました。
それで、少し遠くにあるお店に、網を買いに行きました。
そしてちょっと濃いコーヒーを入れて、少し落ち着きました。

というわけで、居は何やら支離滅裂な1日でした。
でもまあ「宿題」は2つだけは何とか目処ができました。
明日はまた、いろいろなことがある1日です。
そのおかげで、たぶん、調子はもどるでしょう。
ここには書けないことも含めて、今日もてんやわんやの1日ではありました。

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■節子への挽歌3214:ワクワクした午前中でした

節子
今日もまた、朝から大忙しでした。
といっても、自宅での話です。

インターネットの広がりで、今や私のような高齢者も、社会の中では自由に飛び回れるようになりました。
肉体的な、ちょっとした坂を上るも疲れてしまうようになりましたが、ネットの世界では、そうしたハンディはありません。
ですから、いろんなことができるのです。
私自身はさほどネットを駆使できるわけではありませんが、それでもネットでのチャットや私よりも不得手な人のための支援はできるのです。

今日やったことの一つは、ちょっとワクワクするものでした。
節子も知っているハーモニカ奏者の西川さんが、障害を持つ仲間と3人で、台湾で開催される第11回アジア太平洋ハーモニカフェスティバルに参加したいと考えました。
しかし、西川さん以外の2人は、重度障害者のため、ボランティアヘルパーに同行してもらわなければなりません。
その費用をどうするか。
そこで西川さんは、クラウドファンディングで資金調達しようと考えました。
西川さんのハーモニカ活動は、「人と人を結ぶ」と同時に、身体や視覚に障害がある人たちの人生を変えられ名会いかという思いがあります。
そして、実際に、何人かの人たちは、人生を大きく変えているのです。
西川さんのプロジェクトは次にあります。
https://readyfor.jp/projects/harmonica-2
西川さんの呼びかけを受けて、私の友人たちも支援してくれていますが、そのお一人の80代の女性がどうも手続きができません。
そこで私が事務局をやっているコムケアセンターで代行することをやってみたのです。
単なる代行ではありません。
コムケアセンターという中間組織が、プロジェクトを評価し、支援していくというやりかたがあることに気づいたのです。
もちろんすでにそうしたことは行われていますし、そのための組織もあります。
でも実行してみると、これはなかなか面白い仕組みに発展させられるなと感じたのです。
そこで少しワクワクしてしまったわけです。

ガーナ人の若者とも、今朝はちょっとネットでチャットしました。
ほかにも3つのプロジェクトに関する対応で、いろんな刺激を受けていました。
気がついたらもうこんな時間です。

今日はたまっている宿題を消化するために、在宅なのですが、何か宿題以外のことがやりたくなってきてしまっています。
さてさて困ったものです。
雨が止んだので、畑にも顔を出したくなりました。
さて、宿題は消化されるでしょうか。
いささか心配です。

ネットの世界から現実に戻ると、飛び回るほどのエネルギーがない現実に直面します。
どちらが幸せなのでしょうか。
ネットの世界に逃げてしまいがちなこどもや若者の気持がよくわかりますね。

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2016/06/23

■争点が憲法であるという罠

参議院選挙が始まりました。
争点はなんなのか。
憲法改正は争点なのか、などと議論されています。
しかし、「憲法改正」は争点になり得ません。
それを争点にしようとしている人がいたら、とんでもない無知な人か詐欺師だろうと、私は思っています。

憲法は手段です。
決して目的ではない。
とすれば、憲法改正は、正反対の内容を意味する言葉になります。
戦争ができる国にするのも憲法改正であれば、戦争ができない国にするのも、憲法改正です。
それを曖昧にしたまま、改憲だ護憲だというのは、問題を見えなくするだけの話です。
争点とは、白か黒かがはっきりしたものでなければいけません。
争点にするのであれば、憲法ではなく、戦争をする国にするかどうかの選択でなければいけません。
だれにもわかる生活用語で語ってこそ、争点は争点になり得ます。
問題の立て方を学ぶことの少ない日本人は、「問題」とは何かがほとんどわかっていません。
だから「憲法改正」が争点だなどと言ってしまうわけです。

同じように、「経済成長」も手段であって目的ではありません。
しかし、残念ながら日本では、「経済成長」が目的だと思っている人が多いようです。
かつての民主党がその先鞭をつけたと思いますが、いまは自民党も新自由主義発想ですから、経済成長を目的化しています。
しかし、経済成長は、格差を増幅させることもあれば、格差を縮小させることも(極めて例外的ではありますが)あり得ます。
安倍首相は、次第に成長の果実が経済的な下層にも回ってくると言いますが、そんなことはありません。
なぜならいまの経済は、下層から少しずつ吸い上げて、その一部を下層に還元するという、ロングテール収奪型の逆トリクルダウン構造になっているからです。

それはともかく、経済成長は生活向上にもつながれば、生活の貧困化にもつながります。
安倍首相は、この数年の経済成長が成果を上げてきたと言いますが、間違いなく成果は上がっています。
金持ちがさらに金持ちになったという意味での成果なのです。
しかし経済的に下層にいる人たちは、むしろ貧困化が進みましたから、成果があったなどとは言わないでしょう。
経済成長は、置かれた立場によって、成果は正反対になるのです。
ここでも、もし争点があるとすれば、「格差縮小」とか「格差拡大」と言うことでなければいけません。
あるいは、企業のための経済成長か生活者のための経済成長か、でなければ意味が分かりません。

私は、今回の選挙の争点は明確だと思います。
独裁政治を許すのか、民主政治を目指すのかです。
その大きな岐路に、私たちはいます。
それを覆い隠すように、絹布プレカリテ改正や経済成長が争点として叫ばれています。
争点は、もっともっと大きなことなのではないかと思います。
だとしたら、誰に投票するかは明確です。

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■節子への挽歌3213:自己紹介と他己紹介

節子
昨日、自己紹介や過去の物語を語ることが組み込まれた会に参加しました。
前にも同じような会に参加したのですが、そこでどうも私は「自己紹介」ができない人間だということに毎回気づかされます。
加えて、自分を語ることがどうもできないのです。
それならそんな会に出なければいいと言われそうですが、その会は私が代表であるストーリーテリング協会の集まりですので、欠席するわけにもいきません。
実に困ったことですが。

そこで参加者みなさんの話を聞いていると、実に見事なのです。
どうして私には、それができないのか。
少し考えて話そうとするのですが、話している途中で、考えていたこととは全く違う話をしたくなってしまいます。
話すことを考えて、話すことができないのです。
とりわけ過去のことが話せない。
記憶があまり残っていないということもありますが、どうもそれだけではなさそうです。
協会の吉本さんに、お手本まで示してもらいながら、練習もさせられましたが、まったく逆効果です。
ともかく自己紹介ができません。

これはいまに始まったことではないのです。
昔から私は自己紹介が苦手です。
自分がわからないからかもしれません。
もっともわからないのは私だけではなく、先日も私を紹介しようとしてくれた友人が、佐藤さんのことは説明できませんが、と紹介していました。
「説明できない人」というのが、私の紹介というのもおかしな花ですが、私も奇妙に納得できました。
私自身も、うまく自分を説明できませんので。

一種の、これも人格障害なのかもしれません。
自分でも自分がわからない。
いやはや困ったものです。

しかし、なぜ人は自己紹介が必要なのか。
昨日は、自己紹介ではなく、他己紹介もありました。
昨日はあまりうまくできませんでしたが、私は他己紹介は嫌いではありません。
まあかなりめちゃくちゃな他己紹介ですが、他己紹介ならできそうです。

しかし、他者に説明できない自己とはいったいなんなのか。
悩ましい課題です。

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2016/06/22

■舛添さんの行動は、結局は都庁文化の現れに一つでしかなかった

舛添騒動が終わったかと思ったら、今度は都議たちのリオ視察騒動が起こっています。
構図はまったく舛添さんの海外出張と同じような気がします。
舛添さんの行動は、結局は都庁文化の現れに一つでしかなかったことが明らかになってきました。
辞任後の舛添さんの「怒り」に満ちた表情と大人げない行動の理由がわかる気もします。
舛添さんは、結局は都議たちと都庁の幹部職員たちに、いいように扱われていただけなのかもしれません。
とすれば、舛添さんにはリーダーシップもマネジメント能力もなかったということになるでしょうが、罠にはめられたような気がしてもおかしくはないでしょう。

舛添さんよりも、一番の悪の根幹は都議たちではないかとも言えるでしょう。
後から参加した舛添さんは、郷に入れば郷に従えだけの、人物だけだったかもしれません。
いずれにしろ、都議たちの語っていたことが、いかにも空しく響くようになりました。

都庁の職員すべてが、そうではないでしょうが、そういう職場に甘んじていることは、その無駄使いと公私混同の一端を担っていたということになるでしょう。
もちろん共産党の大山さんも、その例外ではありません。

むかしと違い、いまはインターネットなどを使えば、知ったことを公開していくことはそう難しいことではありません。
情報漏えいはよくないでしょうが、組織の不正を発見したら、それを正す努力をすることは、組織の成員の責務です。
おかしなことを見過ごさずに、きちんと正すように努力していかないと、いつの間にか自らもまた、そのおかしなことの当事者になってしまうからです。

しかし、これは決して都庁だけの話ではありません。
私も、どこかでおかしなことをしていないとは限りません。
都庁の文化が、都庁の職員の行動や意識に大きな影響を与えているように、
現在の日本社会の文化が、そこに住む私の行動や意識に大きな影響を与えていることは否定できないことです。

舛添騒動は、わが身を振り返る良い材料です。
私の中の「舛添」要素を改めて見つけ出して、廃棄しなければいけません。
まずは自らの生き方を問い直す。

みなさんもいかがでしょうか。
余計なお世話ですね。
すみません。

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■カフェサロン「新聞折り込み広告などをつかった遊具づくり」のお誘い

今回は、ちょっと趣向の違うサロンを企画しました。

新聞の折り込み広告などの、いわゆる資源ごみを材料にして、遊具をつくってみようというサロンです。
友人の益田さんは、某大学の細菌学の教授でしたが、いまは「どうもモノづくりが最終的仕事になった」と言いながら、紙を使った遊具づくりを近くの公民館などで子供たちに教えています。
その益田さんから、大人にはあまり興味を持ってもらえないのだが、湯島のサロンで一度やってみたいと連絡がありました。
彼がつくっているのは、たとえば、独楽や紙飛行機、牛乳パックボールなどですが、こういうものはみなさんもよくご存知かもしれません。
しかし、タケトンボも紙で作るのだそうです。

果たして、湯島サロンのみなさんに興味を持ってもらえるかどうか、迷っていたのですが、モノづくりに関心が深く、以前、サロンで「ぶんぶんゴマ」を紹介してくれた小宮山さんが、タケトンボまで作るのかと感心してくださったので、開催することにしました。
紙でつくったタケトンボは、果たして飛ぶでしょうか。

当日は、そうした遊具の作り方と遊び方を紹介してもらいますが、併せて、遊具や遊びに関する話し合いもできればと思います。
ちなみに、益田さんは、こうした活動を通して、体を動かすことの大切さを実感しているようですので、そのあたりも。

また、この遊具づくりを、子どもたちや高齢者の集まりなどで、取り上げてみたいという方も、ぜひご参加ください。
多くのみなさんの参加をお待ちします。

○日時:2016年7月3日(日曜日)午後1時半~3時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「新聞の折り込み広告などをつかった遊具づくりと遊び方」
○話題提供者:益田昭吾さん
○会費:500円
○参加申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com


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■節子への挽歌3212:「亭主関白道」

節子
先の記事をアップして、気がついたのですが、また挽歌の番号が5つもずれてしまっています。
毎日書こうと思ってはいるのですが、結構、抜けてしまうようです。
それで、今日は、もう一つ書くことにしました。

最近知り合った柿内さんから、「亭主関白道」というのがあるとお聞きしました。
「全国亭主関白協会」というところで、認定しているのだそうです。

亭主関白といえば、さだまさしの「関白宣言」を思い出しますが、その協会のホームページによれば、亭主関白の本来の意味は次のように書かれています。

歴史を紐解けばすぐわかるが、関白とは、天皇に次ぐ2番目の位。
家庭内ではカミさんが天皇であるから、「関白」とは奥様を補佐する役目。
また、「亭主」とは、お茶を振る舞う人、もてなす人という意味。
つまり、真の『亭主関白』とは、妻をチヤホヤともてなし補佐する役目である。

なるほど。
とてもわかりやすい。
そして、そのホームページに、「平成新!亭主関白道段位認定基準」というのがありました。

初段 3年以上たって「妻を愛している」人
二段 家事手伝いが上手な人
三段 浮気をしたことがない人、ばれていない人
四段 レディーファーストを実践している人
五段 愛妻と手をつないで散歩ができる人
六段 愛妻の話を真剣に聞くことができる人
七段 嫁・姑問題を一夜にして解決できる人
八段 「ありがとう」をためらわずに言える人
九段 「ごめんなさい」を恐れずに言える人
十段 「愛している」を照れずに言える人

私の場合、すべてに胸を張って「はい」と答えられますが、肝心の妻がいないので、段位はもらえません。
補佐する人がいなくなった時の補佐役は、どうしたらいいのか。
いまの私にできることは、位牌を守ることくらいでしょうか。
そういえば、最近、お墓にも行っていません。
困ったものです。
やはり段位はもらえそうもありません。

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■節子への挽歌3211:気力回復の朝

節子
昨夜はすべてを忘れて、早寝をしました。
早寝をすると12時ころに目が覚めてしまい、結局、また寝不足になってしまいました。
人生は、なかなかうまくいきません。

しかし、頭はかなりすっきりしてきました。
もしかしたら、私も軽い躁鬱傾向にあるのかもしれません。
節子がいなくなってから、実は朝まで熟睡することがほとんどなくなりました。
真夜中に目が覚めてしまうようになってしまったのです。
もう9年近くたつのに、いまもってそこから抜け出られません。

昨日の夕食は、わが家の畑で採れたナスのお味噌汁を娘がつくってくれました。
実はこのところ、畑に行っていないため、畑がめちゃくちゃになってしまっているようです。
娘に行ってもらったら、レタスは溶けていたようですし、キャベツはトカゲに食べられていたようです。
それでもナスがなっていたようで、それを取ってきてくれたのです。
美味しいナスのお味噌汁でした。
娘は味噌汁が苦手なので、私一人で味わいました。
節子に供えるのは忘れました。

代わりに、昨日は山形のサクランボを節子に供えました。
山形の友人が毎年、この時期になると、サクランボを送ってくれるのです。
昨夜は2粒ほど味わい、今朝、たっぷりといただきました。
美味しいサクランボでした。
送ってくれた友人とは、この10年以上、一度もあっていないのです。
仕事の関係で、出会った人ですが、仕事が終わってからしばらくしてから、サクランボが毎年届くようになりました。
不思議なご縁です。
なにか繋がりを感じてくれているのかもしれません。
感謝しなければなりません。

私の朝食は基本的にトーストです。
昨日、気分転換にスーパーに行ったら、88円の食パンがあったので、それを買ってきました。
6枚で88円。いつもの半値です。
パンの味は、値段によってどれだけ違うのか確かめてみたくなったのです。
時々、娘が有名店のパンを買ってきてくれますが、そうしたものはやはりおいしいですが、普段は、せいぜい一斤150円前後のパンを1枚食べています。
そのレベルのパンだと、私の味覚のレベルだと、値段と美味しさはそう関係ないことは確認済みです。
もちろん「コミュニティのみ」の問題はあります。
さて、88円のパンですが、私の味覚ではさして大きな違いは感じられませんでした。
一緒に食べたサクランボのせいかもしれません。
しかし包装のデザインが悪いので、やはり2回目はないでしょう。

まあそんなわけで、今日はなんとか気力を回復してのスタートです。
思考力がかなり回復してきていますので、まあ何とか乗り切れるでしょう。
人生はまことにもって山あり谷ありです。

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2016/06/21

■節子への挽歌3210:またメンタルダウンです

節子
今日やろうと思っていたことが3つあります。
いずれも、ある構想をまとめることです。
昨日まで、いろいろと用事があったので、すべてを今日にまで延期していたのです。
そしてそのために、今日は、まる1日あけておいたのです。
しかし、昨日までの疲れが出てしまい、午前中はボーっとしていました。
3人からの電話以外は、煩わされることなく、マイペースで過ごせました。
午後、さて宿題に取りかかろうかと思ったのですが、なぜかその気になれません。
最近は、身体の回復以上に、気力の回復が難しくなってきました。

3つの課題は、私だけのことではなく、チームで動いていることでの課題です。
その3つは、それぞれ違うチームとの約束で、明日が締め切りです。
いずれも、「ゼロから創りだす」必要がある宿題です。
つまり、「作業」ではなく「創作」なのです。
ですから「気」がでてこないと取り組みようもありません。
栄養ドリンクを飲みましたがだめでした。
気分転換に、近くの娘の家にも行きましたが、だめでした。
どうしてもやる気が起きません。
さてどうするか。

長年生きてくると、こういう時には開き直れるのです。
まあできないものは仕方がない、と諦めるのです。
同時に、なんとなく形を整えて、こんな形で進めますと予告して安心してもらうわけです。
そう言う資料作りなら、気が向いたら時間をかけずにできるでしょう。
悩むよりも、今日はすべてを忘れて、寝るのがいいでしょう。
早寝早起きこそが、生活リズムを回復させてくれるでしょう。

というわけで、今日はあきらめて寝ることにします。
何だか最近、疲れることが多くなりました。
今日電話がかかってきた武田さんにそんな話をしたら、生命の炎が消えかかってきたのだろうと言われました。
それを自覚できないところに不幸があります。

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2016/06/20

■沖縄を考えるカフェサロン・パート2の報告

昨年12月の緊急サロン「辺野古のたたかいはいま」の、パート2を開催しました。
前回に引き続き、東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長の緒方修さんが、辺野古の写真を使って、最近の状況だけではなくその背景について、お話してくださいました。
前日(6月19日)に開催された「沖縄から海兵隊の撤退を求める県民大会」の様子も話題になりました。
やはりマスコミ報道からは伝わってこないことがたくさんあります。

緒方さんが見せてくれた写真の中に、アメリカからやってきた「平和を求める元軍人の会」のメンバーが、辺野古で新基地建設反対を訴えている写真がありました。
昨年12月の辺野古反対抗議活動の時の写真だと思いますが、その報道の時に、元海兵隊員の方が、「私はテロとの戦いのためにイラクに派兵されたが、実際の戦場では、自分自身がイラクの人々にとってのテロだった」と話していたのを思い出しました。
そして、沖縄に基地を押しつけていることもまた、ある意味でのテロへの加担ではないかという気がしました。
私たちは、簡単に対立を図式化して、敵と味方に分けがちですが、大きな問題に立ち向かうには、敵味方を超えた話し合いを通して、問題を捉え直していく必要があるように思います。
真の敵は、もしかしたら、自分の中にいるのかもしれません。

沖縄の人たちが、いわゆる本土の人たちをどう考えているかという話もありました。
「結婚相手としては、米兵より日本本土人の方に抵抗を覚える」という話は衝撃的でした。
そういえば、20年以上前に沖縄に講演に行ったことがあります。
企画してくださった沖縄の人たちと、とても実りのある話ができた満足感を得ました。
ところが、帰りに空港までご自分の車で送ってくださった方が、東京から沖縄に嫁いだ方でした。
いろいろと話した後で、彼女が、沖縄の社会に入るまでの苦労を話してくれました。
それは暗に、沖縄の人はやさしいので本土から来た人にはなかなか本心は語ってくれませんよ、と言うメッセージだと気づかされました。
彼女から後で、沖縄の文化について沖縄の人が書いた本が送られてきました。

辺野古がいまどのような状況にあるか、そしてこれからどうなっていくか。
緒方さんのお話から、新聞やテレビの情報から感じていることとはかなり違う印象を、私は受けました。
そして少し安心しました。
沖縄独立論や沖縄大使の話も出ました。
知らないことがまだまだたくさんあることを思い知らされました。

緒方さんは、沖縄では自分たちはできることをやっている、だからみなさんもそれぞれにできることを考えてほしいと話されました。
案内にも書きましたが、沖縄の辺野古で起こっていることは、私たちの未来に深くつながっていることを考えれば、私にも何かできることがあるはずだと改めて思いました。
まずは、沖縄のことを周りの人にももっと伝えていこうと思います。

緒方さんは、最近、本を出されました。
「歩き始めた沖縄」(花伝社)です。
昨日もその本の紹介をしてくれましたが、私は地元の図書館にこの本を購入してもらうように頼みました。
まだ届いてはいませんが、きっと何人かのみなさんが読んでくれるでしょう。
まあ小さなことですが、そんなことも含めてやれることはあるでしょう。

緒方さんから今朝、メールが届きました。

私が沖縄にいて幸せを感じる時。
海辺で沈む夕陽を見ていたら犬を散歩させていたおばさんから、きれいですね、と話しかけられる。
居酒屋で隣に座っていた人からマグロの刺身の残りを、どうぞ、と差しだされる。
などは決して東京ではあり得ないことでしょう。
昨日はあまり良い話が出来ませんでした。
次の本は青い目が見た琉球。逝きし世の思い出、のように100~200年前の時代を振り返りたい、と考えています。
沖縄サロンパート3が楽しみです。


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■節子への挽歌3209:なんでこんなに面白いことが多いのでしょうか

節子
なにやらめまぐるしいほどの状況になってしまい、倒れそうです。
今日も含めてこの3日間、連日で湯島のサロンですが、それはともかく、その前後にいささか作業を伴うプロジェクト起こしが重なっていて、やるべき課題にうずもれてしまっています。
とはいえ、昔と違って、寝る時間を減らすわけにもいかず、人と会う時間も減らせないので、なかなか作業が進みません。
そのせいか、今日は早朝から4人の人から電話がありました。
督促とは言えませんが、何やらプレッシャーを感じます。
幸電話嫌いの私としては、困ったものです。

こうなったのは、私の能力不足です。
能力もないのに、簡単にプロジェクトを起こしてしまい、それで時間破産に陥る。
これが私のよくあるパターンなのですが、そういう状況になってもなお、新しいプロジェクト起こしを働きかけてしまうところが、破滅的なのです。
4人からの電話のほかにも、いくつかのメールが来ましたが、それに反応してしまい、2つほど面白いプロジェクトを思い立ってしまいました。
それで、それを立ち上げないかというメールを送ってしまいました。
いずれも面白そうなプロジェクトです。
でも相手がやろうということになったらどうなるのか。
困ったものです。
しかしみんなは私ほど軽率ではないでしょうから、たぶん大丈夫でしょう。

というわけで、節子が知っている私の生き方は全く変わっていません。
そのおかげで、眼医者にも行けず、畑にも行けず、本も読めず、気になっている人にも会いに行けません。
しかも約束の期限は刻々と迫ってくる。
さてさてどうしたものか。
この1週間が山場です。
まあ、毎週、そう思っているような気もしますが。

ちょっと気分転換に挽歌を書いてしまいました。

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■「みんなのゆる~いカフェサロン」のご案内

先月から公開開催になった湯島での「みんなのゆる~いカフェサロン」、略して「みんカフェ湯島」は、今月は6月25日(土曜日)の午後1時から3時の予定で、開店します。
もしお時間があれば、気軽に参加ください。
メニューは珈琲と紅茶とジュースだけですが、話のメニューは参加者次第です。
話したい人は話せる場になると思いますし、話したくない人には話さないでも大丈夫の場になると思います。
突然やって来てくださるので大丈夫です。
途中での出入りももちろん自由です。
お会いできるのを楽しみにしています。

○日時:2016年6月25日(土曜日)午後1~3時
○場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○会費:500円(気が向いたら)

なお、7月から、成田、印西、新潟でも、それぞれ「みんカフェ」がスタートします。

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2016/06/19

■カフェサロン「サンチアゴ巡礼と四国巡礼」の報告

カフェサロン「サンチアゴ巡礼と四国巡礼で考えたこと」は盛況で、なんと16人の参加がありました。
ご案内に書いたように、歩くことが人を元気にすることは間違いない真実のようです。
こんな元気な鈴木さんは初めてだという人もいたほどでした。

1時間半、流暢に無駄なく話し続けた鈴木さんの話は、実践的な情報から哲学的な示唆まで、とても内容の濃いものですので、報告するのはとてもできません。
録音しておけばよかったと後悔しましたが、後の祭でした。
記録しておけば、紹介もできたのですが、私は記録するという文化のない人間なので、書き残していないため、内容を紹介することができません。
すみません。
もしどなたか記録していた方がいたらご紹介ください。

例によって、私の印象に残ったことだけを、断片的に紹介させてもらいます。
鈴木さんによれば、巡礼の楽しさのひとつは、人に会えることだそうです。
巡礼仲間との心の触れ合い、地域の人との暖かな人間的交流、…。
それを聞きながら、巡礼路よりも都会の道路や駅の方が人との出会いが多いのに、どこが違うのだろうかと思いました。
参加していた竹居さんも、自分は巡礼ではないが旅に出る楽しさも人に会うことだとお話になりました。
人はみんな人に会いたいのでしょうか。
都会にはたくさんの人がいるのに、そこでは人に会えていないのでしょうか。
実に面白い問題です。

鈴木さんはまたこう言いました。
巡礼で出会う人とは短い交流であるが故に、相手のいいところだけと付き合うことができる。
だからみんな「良い人」に感ずる。
そして、どんな人であろうと、別れる時には寂しさや悲しさを感ずる。
それを聞いていて、人生もまた長くて80年。有限の人生においても、相手のいいところと付き合うことはできないのだろうか、と考えてしまいました。
人生も巡礼だと考えれば、それができないはずはない。
そうなれば、住みよい世界がやってくるだろうなと思った次第です。

こんな話もありました。
サンチャゴ巡礼では相部屋が原則だったが、四国巡礼は個室が原則。
サンチャゴの時には相部屋を楽しんだ鈴木さんも、個室に慣れてしまうと、相部屋よりも個室好みになってしまったといいます。
なにか割り切れないものを感じながら聞いていました。
そういえば、私も最近、相部屋で泊まったことはほとんどありませんが、そのうち食事も個食になっていくのでしょうか。
ちなみに、サンチャゴ巡礼路の宿では相部屋もシャワールームも男女の区別がないという話もありましたが、なんだか日本は進んでいるのか遅れているのか、わからなくなりました。

鈴木さんはサンチャゴ巡礼では毎日20数キロ、四国遍路では30キロを歩いたそうです。
負担を少なくするために、荷物をいかに軽くするかがとても大切になってきます。
荷物が重いと足を痛め腰を痛め、歩けなくなるわけです。
そこで不要な荷物はどんどん減らし、身軽にならないといけません。
歩き続けていると、それこそ紙1枚の重さでも少ない方がいいと感ずるようになる。
領収書1枚でさえ、持ち歩きたくなく、もらったらごみ箱にすぐに捨ててしまったそうです。
この話は、とても興味深かったです。
人生にも通ずる話です。
私たちが生きにくいのは、もしかしたら不要な荷物を所有しすぎているからかもしれません。
人生においても、余分な荷物を捨てれば、元気が出てくるのかもしれません。

捨てるのは荷物だけではありません。
余計な思いからも自由になっていく。
そしてその分、全身の感度が研ぎ澄まされていくようです。
巡礼に行く前は、もしかしたら左脳の一部を過剰に使っていたのが、巡礼中は、全身の神経を使うようになっていたと、鈴木さんは話してくれました。
そのおかげで、自然の中で生きる力が高まった。
道路標識だけではなく、全体の風景や人の足跡、さらには太陽の位置などから、自らの場所と向かうべき方向を考えるようになった。
これもまた生きる上での大切なことを思い出させてくれます。

なぜ人は巡礼に行くのかという話もありました。
必ずしも宗教的な理由が多いわけではないようです。
20代の時に四国遍路をしたという中下さんが、当時は「死者の追悼」という理由が多かったという話をされました。
しかし、最近はどうもそういう理由よりも、「自らのため」の人が多いようです。
これに関しても、面白い議論がありましたが、長くなるのでやめます。

ほかにも面白い話がたくさんありました。
四国遍路の「お接待の文化」が、いまのままで維持されるのかどうかに関しても話があり、もし行くのであれば早い方がいいといいような話もあったような気がします。
長くなってすみません。

ちなみに、鈴木さんには早く本にして出版してほしいと頼んでいます。
もし本になったらご案内しますので、ぜひ読んでください。
もしサンチャゴか四国に巡礼に出る方がいたら、ぜひ一度、鈴木さんのアドバイスを受けることをお勧めします。


20160619


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2016/06/18

■カフェサロン「なぜ私は〈ママと子供の無料パソコン教室〉をやっているのか」報告

今回は、主に母娘対象にパソコン技術を学んでもらうことによって、母娘ともども、生きる力を高めてもらおうという活動に取り組んでいる、ひだまりサロン主宰者の日高正晃さんにお話をお聞きして話し合いました。
8人の参加者でしたが、湯島のサロンには初めての方が3人もいました。
それも、在日韓国人の方、大企業の方、社会教育に取り組んでいる方と、多彩でした。

日高さんが、あえて主対象を母娘にしているのには理由があります。
DV被害を受けてシェルターに入っていた母親の支援に取り組んでいるからです。
日高さんの思いは2つあります。
ひとつは、母親の経済力を高めるためにパソコンの技術を取得してもらい、在宅でも仕事ができるようにすることと、その子どもたちの情報リテラシーの学びの場をつくりだしていくことです。
前者は、これからの働き方(私は「生業」を基本に置いた働き方への関心が高まると思っています)につながる問題であり、後者は、経済的な格差が教育の格差を引き起こし格差の構造化をますます進めるということへの対策です。
いずれも、とても大切な課題だと思います。

しかし残念ながら、日高さんの活動は毎年かなりの赤字です。
どうしたら活動を持続させ、発展させられるか。
参加者のみなさんから、さまざまなアドバイスや意見がありました。
具体的な提案もありましたので、私もさっそく動いてみようと思います。
今回は企業の人も参加していましたが、企業の人ができることも山のようにあります。
企業やNPOといった壁を超えて、もっとみんながつながればいろんな解決策が生まれてくるような気がします。
それぞれの「たこつぼ」世界から出ていけば、違った世界が見えてきます。

実は、サロンの2日前に、発達障害の人たちのたまり場である、高田馬場のNeccoカフェに行ってきました。
そこで発達障害の人たちと話していて、この人たちのそれぞれの才能や特技をつなぎ合わせたら、いろんなことができるだろうなと考えていたのですが、同じ問題を抱える人たちだけで考えるのではなく、もっと広いつながりのなかで考えていくことが大切だろうと改めて思いました。
コムケア活動を始めた動機の一つは、個別問題だけに取り組むのではなく、その根底にある社会の問題や自らの生き方へも目を向けるような社会にしたいと思ったことですが、そのためには一人ひとりの「視野」を広げる必要があるように思います。

話が盛り上がって、気がついたらまた予定の時間をオーバーしてしまっていました。
日高さんのように、社会活動を経済的に自立させることに悩んでいる人は多いと思います。
そうした人たちの学び合いの場をつくることもいいかもしれません。
どなたか事務局をやってもいいと言う人がいたら、ご連絡ください。

また今回、在日韓国人の方の発言を聞いていて、やはりそういう人たちにとっての生きにくさを感じました。
コムケアでは最初の頃、そうした問題にも取り組んでいましたが、最近すっかりと抜け落ちていました。
少し考えていきたいと思います。

日高さんの活動については、ひだまりサロンのホームページをご覧ください。
http://hidamari-salon.jimdo.com/

20160618


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■舛添さんを援護したくなってしまいそうです

都知事辞任後も、相変わらず舛添報道が続いています。
こう長く続くと、舛添さんを援護したくなってしまいそうです。

東京都民は結局は、舛添さんと同じレベルの民度なのでしょう。
横から見ていると、どんぐりの背比べ、でお互いに自らを貶めている感じです。
選挙民はやはり自分の丈に合った代表を選ぶものだとよくわかります。

先の選挙で、まさか都民が舛添さんを選ぶとは思ってもいませんでした。
そこまで愚かではないだろうと思っていたのです。
彼のことを少しは知っていれば、あり得ない話だと思ったからです。
第一、自民と公明の推薦ですし。

猪瀬さんを辞めさせた都民も、信じがたかったですが、結局、都民は全く変わっていなかった。
都民はまたもや、舛添さんの「瑣末な話」を大きく騒ぎ立てて、社会をこわし続けているマスコミに乗せられて、舛添さんを辞任させてしまいました。
まさに「パックス・ロマーナ」時代の、剣闘士のゲームを見ている気分です。
私には、不快極まりないゲームですが、どこまで追い続けるのでしょうか。
退職金まで払うなというような意見もありますが、なんという「セコイ」都民なのだとあきれます。
報道も報道で、そんな時間があれば、沖縄や原発を報道してほしいです。

誰を選ぼうと都民のレベル以上の人は選ばれないとしたら、事態は変わらない。
まずは自らの世界を広げ高めなければいけないと思います。
なにかがあれば騒ぎ立てているような人たちの社会では、何も変わりません。
まずは一人ひとりの社会性や市民性を高めなければいけない。
それが、私があまりデモには行かずにサロン活動に集中しだしている理由でもあります。

でも私の思いが実現に向かったとしても、50年はかかるでしょう。
来世を期待するしかありません。

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2016/06/17

■私には死刑を実行する勇気がありません

2010年、宮城県石巻市で殺人事件を起こした、当時18歳の少年の死刑が確定したというニュースを知って、それが頭から離れません。
報道によれば、この事件は、裁判員裁判で少年を死刑とした唯一の事件で、「市民らが少年に対して死刑を選択した判決が初めて確定する」(TBS系テレビでの報道)とされています。
「市民らが少年に対して死刑を選択した」という表現が、私の心を呪縛してしまったのです。

たしかに被告が起こしたことは、許しがたいことです。
最高裁の大谷裁判長は、「少年とはいえ深い犯罪性に根ざした犯行で、責任は重大だ」として、上告を棄却しています。
それには異論がないのですが、しかしだからといって、死刑が正当化されるわけではありません。
こうも言えるのです。
「(死刑とは)国家とはいえ深い犯罪性に根ざした行為で、責任は重大だ」。

これも報道によれば、犯行時に未成年だった被告に死刑判決が確定するのは山口県の光市母子殺害事件以来だそうです。
私が、死刑制度についてきちんと考えだすきっかけになったのが、この事件です。
当初は、被害者の夫による「死刑求刑」に共感さえ持ちました。
もし私が同じ立場だったら、死刑を望むのではないかと思ったからです。
しかし、そのブログを読んだ、見ず知らずの関さんという方からの指摘もあり、軽々に死刑論への共感を口にしてはならないと気づかされました。
どんな理由があっても、人の命を奪うことなどあってはならないとすれば、そもそも死刑制度などあっていいはずはなく、それはただ国民支配のためのものであると気づいたのです。
そのあたりのことは、このブログでも連続シリーズで書いたことがありますが、
私が死刑制度に反対する理由は簡単で、私には死刑執行ができないということなのです。

最近さまざまな世界と触れ合う中で、確信を持ててきたことの一つが、この世には純粋な加害者も被害者もいないということです。
被害者が、加害者以上に加害者性が強いと思うこともありますし、社会そのものが弱い立場の人を犯罪に追い込んでいる事例も少なくありません。
今回死刑が確定した少年も、そこに至る前での経緯はそう簡単ではないでしょう。

裁判員だった方が、「自分の出した結論がいいのか悩み続けて、つらくて」と語っています。
被害者の遺族の方は、「被告人が死というものに向き合うことで、初めて、娘があじわった恐怖や無念さを理解でき、反省や後悔の気持ちを抱くような気がしてなりません」と語っています。
被告は裁判の前に、「どんな判決が出ようとも被害者と遺族のことを考えていきたい。本当に取り返しのつかないことをした。一番謝らなければならない被害者本人には謝ることさえできません。今は空に向かって手を合わせて祈ることだけ」と語ったそうです。
この3つの発言を繰り返し読みましたが、やはりどこか間違っているような気がしてなりません。
何かとても大切なことが、いずれからも抜けているように思うのです。

私は、いつも、当事者の立場に立って、一人称自動詞で考えることを大切にしています。
もし私が、被告であり、遺族であり、裁判員であったら、違った答が出るだろうか。
一晩考えて出てきた答えは、「同じ答だ」でした。

少年を死刑にする社会には、やはり私は居心地の悪さを感じます。

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2016/06/16

■節子への挽歌3208:「見えないところにしまうと、その存在ごと忘れちゃう」

節子
高田馬場にある、大人の発達障害者の憩いの場NeccoCafeに行ってきました。
NeccoCafeを運営しているのも、発達障害の人たちです。
私も、発達障害の長澤さんに誘われたのです。
彼がアレンジしてくれていて、NeccoCafe代表の金子磨矢子さんともお会いしました。
金子さんは「発達・精神サポートネットワーク』の理事長ですが、子どもの頃からADHD(多動性障害)の症状に悩んできたそうです。
ADHDの友人は何人かいますが、金子さんはそういう人たちとは違って、とても物静かな女性でした。
人はみんなちがって当たり前、それを認め合っていけば、生きやすい社会になるのにという点で、私と意見が一致しました。

金子さんのインタビュー記事のコピーをもらいました。
そこに、こんなことが書かれていました。

NeccoCafeは、食器やタオルなどよく使う物は、見えるところに出してある。
「見えないところにしまうと、その存在ごと忘れちゃうことがあって」と金子さんは笑う。
「見えないところにしまうと、その存在ごと忘れちゃう」。
何でもないような言葉ですが、とても深い意味を感じます。
そして、とても心に響いてきます。
愛する子供を亡くされた方が、子ども部屋を片づけずにそのままにしているのも、しまってしまいたくないからなのでしょう。
私も、節子の残したものを整理することに抵抗があって、いまもまだ片づけられずにいるとことがあります。
先日お会いしたTさんは、いつも、息子さんの一生をまとめたA3の記録を持っています。
そしてたぶん、心を開いた人には、それを見てもらう。
私が、この挽歌を書き続けているのも、見えないところにしまってしまわないためなのかもしれません。

しまうことは忘れること。
考えさせられることの多い、NeccoCafe訪問でした。

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2016/06/15

■大きなものが見えない恐ろしさ

都知事の政治資金の私的流用問題でテレビニュースは連日にぎわっています。
都知事の答弁のように、どこもかしこも、そして連日、同じことの繰り返しに近いですが。
しかし、どうしてこんな瑣末なことを根掘り葉掘り話題にするのか。
情ない状況です。

その陰に隠れていることの方に、私は関心があります。
たとえば、甘利さんの不起訴問題です。
舛添さんの話は日常的な話なので、私のような人間にもわかります。
金額もたかだか数百万円ですから、まあ想像はつきます。
しかし、甘利さんの話になると、多くの人は想像さえつかないのでしょう。
記者たちにも、理解できないのかもしれません。
最近の報道陣には、基本的な知識さえないような気がします。
ですからみんな舛添さん問題に目が行くのでしょう。
いじましく生活している舛添さんを、まるで自分と同じように感ずるのでしょう。
コメンテーターの発言を聴いていると、そんな気がしてきます。

自らが想像できない大きな問題には、関心さえ持てませんし、世界の狭い記者たちには想像さえできない。
そこで、いつも見逃されてしまいます。
いやだれかによって隠されているのかもしれません。
いままた陰謀論が広がりだしているようですが、それさえも誰かの意図の結果かもしれません。
実に退屈な陰謀論が多く、私の周辺でも何人かがそれにはまっています。

見逃されないような事件もありました。
たとえばロッキード事件です。
しかしそれもまた所詮は、その一部を理解できる部分だけ切り取って問題にしただけの話かもしれません。
だから結局は大きな問題はむしろ見えにくくなってしまったような気もします。
単に見えない世界の権力争いに利用されただけかもしれません。

舛添さんが涙を出してまで懇願している一方で、甘利さんは笑顔でほくそえんでいるでしょう。
甘利さんの後ろにいる人たちは、もっと喜んでいるでしょう。
多くの報道陣の目が、だれでもわかる舛添問題に行けばいくほど、ますます好き勝手なことができるひとがいるわけで、相変わらず政治は市場にできるからです。

舛添問題が都政を停滞させているという声もありますが、停滞どころか、その陰に隠れて、何かが着々と進んでいる。
そう思うと、舛添さんの茶番のような報道にジャーナリストの無責任さを感じます。
攻めて甘利問題をもう少し報道してほしいです。
もちろん沖縄の問題も、です。
何が大切かを忘れた社会は、壊れていくしかありません。
それもティッピングポイントを超えたら、一気にです。
もう超えてしまったとは思いたくはないのですが。

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2016/06/14

■節子への挽歌3207:孫が元気に育っています

節子
節子の孫のお宮参りでした。
私はついていきませんでしたが、その前後に親子3人でわが家に寄ってくれました。
私も誘われましたが、行くのを辞めました。
もし節子がいたら、もちろん私たちも一緒に行ったのですが、どうも私一人だと、行く気分になれません。
おそらく、節子がいないことで、孫の誕生を祝う気持ちも高まらないのかもしれません。

名前は、信じがたいことに「にこ」と名付けられました。
アルファベットでの表記は、Nicoです。
イタリアを意識しているのです。
私は娘たちの名前をカタカナにしてしまったので、大いに反省しています。
それにもかかわらず、娘がまさか、私と似たような発想で命名したことが意外でした。
私と同じように、後々後悔しなければいいのですが。

私は、なにかに呪縛される生き方から自由になりたいと子どもの頃から思っています。
ですから子供の名前も、意味をもたせないように、カタカナ表記にしたのです。
しかし、そもそもそれは、呪縛されないということに呪縛されてしまっていたのです。
そして、どんな名前を付けようと人は名前に呪縛されることを娘を通して実感させられました。

私の名前は「修」です。
それは、私にとっては記号以上のものではなく、みずから自分の名前を意識したことさえありません。
しかし、昔、あるテレビドラマで「佐藤修」という役名の人が登場しました。
その人はドラマの中で殺害されるのですが、なにか不思議な気持ちでした。
名前に呪縛されないで生きることは不可能だと思いました。

私ではない「佐藤修」さんと一緒に食事をしたことがあります。
JTのプロジェクトに関わった時ですが、当時のJTの広報部長のお名前は「佐藤修」でした。
そういえば、大学入試の時に、私の隣の人もまた「佐藤修」でした。

「節子」もよくある名前です。
しかし、「節子」という名前に出会うとドキッとします。
やはり名前は大きな意味をもっているのです。

名前はともかく、孫は少しずつ「人間」らしくなってきました。
しっかりと目戦が合うようになってきましたし、会話はともかく、コミュニケーションはできるようになってきた気がします。
節子がいたら、どんなに喜んだことでしょうか。
そう思うと、とても不思議な気分になります。


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2016/06/13

■節子への挽歌3206:湯島は巡礼宿?

節子
今日はたくさんの刺激をもらった1日でした。
まず、40数日をかけて四国を巡礼してきた鈴木さんが湯島に来てくれました。
とても興味あるお話を聴かせてもらいました。
話を聴きながら、四国遍路の世界は、とても幸せな空間なのだなと感じました。
安心してお接待ができると、いわば「残された楽園」なのではないかと思ったのです。
私は、人は基本的に他者を信じ、他者に何かをお接待したいと思っている生き物だと考えていますが(そうでなければ厳しい自然淘汰のなかで残らなかったでしょう)、最近はそれができなくなっている。
しかし、四国お遍路に集まる人たちは、みんな良い人ばかりなので、お接待しても裏切られることなく、いつか恩送りしてきてくれる。
そんな気がしたのです。でも鈴木さんの体験談を聴くと、どうもその「楽園」も10年後には存続が難しいかもしれないような気がしました。
まあ、それは今度の日曜日に、鈴木さんに「巡礼サロン」をしてもらいますので、そこで改めて考えてみようと思います。

続いてきたのは、軍事問題専門家とウォーゲームの専門家です。
私が一度、ウォーゲームを体験したいとお願いしたからです。
今回実物を持参してくれたのは、ボードゲームの朝鮮戦争です。
それで、朝鮮戦争の話になってしまいました。
そしてさらにはフォークランド紛争の話になり、ゲームどころではなくなってしまいました。
それに、そもそも「戦争」の概念が、それぞれに違って考えているようで、おそらく軍事専門家のおふたりにとっては、私の発言はあまりに素人議論に感じられたことでしょう。
途中で少しムッとしているなと感じたのですが、だからといって対応を変えられるほど、私は器用ではありません。
しかし、最後はなんとなく心が通じたようで、なぜか一緒にあるプロジェクトをやるように誘われてしまいました。
断る勇気がなくて、それに興味もあったので、それを受けてしまいました。

最後に来たのは、リンカーンクラブの創設者の武田さんと武田さんの最新の著作の編集者の藤原さんです。
今朝、急に電話がかかってきて、ある相談を受けたのですが、いささか無理難題の相談です。
しかし、まあ無理難題というのは魅力的ですし、何よりも予算がないと言われると断れなくなるのです。
それで結局、頭を使っておふたりの要望にも対応することにしました。

たぶん、この3つの話の順序が違っていたら、後のふたつは断っていたでしょう。
疲れ切っていた昨日では考えられないことですが、私の意には必ずしもそぐわない2つのプロジェクトに関わることになってしまいました。

鈴木さんは、昨年のサンチャゴ巡礼のときにフランス人から受けた親切を、今回の四国お遍路で偶然出会ったフランスからの巡礼者に「恩送り」できたという話をしてくれました。
「恩送り」は、人生を豊かにしてくれるマジックワードです。
そういう気がしていたので、今日は、2つの約束をしてしまったのです。
そこに困っている人がいたら、手を貸さなければいけません。
それこそが、人本来に生き方なのですから。
そして、それこそが、豊かな生き方なのです。
そう言う豊かな恩送り人生が、わずかとはいえ、できることの幸せを感じました。

鈴木さんが行ってくれました。
湯島のこの部屋は「巡礼宿」なのかもしれませんね、と。
そう言われると、そんな気がしてきます。
湯島に来る人たちはみんな良い人ばかりで、そこにいる私は、素直にゆるく生きていても、許されるのです。
私は四国に出かけなくても、毎日がお遍路人生なのかもしれません。

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■法隆寺と下鴨神社に行って感じたこと

一昨日、奈良の法隆寺と京都の下鴨神社に行きました。
ある研修プログラムの一環で、20人ほどのグループだったのですが、それぞれ僧侶と宮司の方にご案内してもらいました。
とてもわかりやすく時間をかけて説明してくれましたが、それを聴いていて、このままだと寺社や寺院もまた「経済機関」になっていくのではないかといささか心配になりました。
説明してくださったおふたりの問題ではなく、そこから感じられる、その背景への思いからです。

たとえば、法隆寺では「世界遺産」になった時につくった石碑の前で、世界遺産になった経緯をお聞きしました。
下鴨神社では、財政的に維持が大変で、所有地にマンションを建設する背景を説明してくれました。
糺の森の木の落葉への周辺住民の苦情の話もありました。
いずれも捉え方によれば、仏教や神道の本質にも触れられる話だろうと思います。
しかしそこで語られていたのは、社会受けするような話でした。
笑いを取るような話には、私自身はちょっと疲れました。

法隆寺が世界遺産になるのは悪いことではないでしょう。
しかし私にはまったく興味がないことです。
世界遺産になったから人が増えるなどという風潮こそ、嘆きはしても、いいことだとは思えません。
それに世界遺産になって喜ぶという心境がわからない。
下鴨神社は、訪問した日はたまたま蛍の茶会があったためにぎわっていましたが、世界遺産になったのに平日は人が来ないとも説明されました。
観光客に来てほしいのですかと突っ込みたかったのですが、やめました。

私自身も観光で行ったのではないかといわれそうですが、実はまさか「観光」プログラムだったとは知らなかったのです。
もしそうであれば、参加はしませんでした。
しかし研修プログラムの一環だと言うので、法隆寺では西堂の三経堂あたりで法相宗のお話を聴けるのかと思っていました。
下鴨神社では、糺の森の神気に触れさせてもらえるかと思っていました。
そうではなく、僧侶も宮司も、たぶん観光ボランティアの方ほどにも、仏教や神道の心は語ってくれませんでした。

いまの時代、寺社の役割はとても大きいと思っていますが、肝心の自社の関係者はそう思っていないのでしょうか。
最近、京都や奈良の寺社を訪問すると、大工事が流行っている気がします。
それは悪いことではありませんが、もう少しやり方があるだろうと私はいつも不快に感じています。
そこにも、仏や神への信仰心が感じられないからです。
暑い日差しの中を長時間、説明を聞かされた腹いせになってしまっているかもしれません。
しかし、説明などしなくても、そこにいるだけで心が揺さぶられるのが、神社や寺院ではないかと思っている私には、いささか苦痛の見学でした。
でも法隆寺では、流れを外れて、坊守の方とお話させてもらったりしたので、ちょっとだけいい時間も過ごさせてもらいましたが。


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2016/06/12

■節子への挽歌3205:「みどりの愛護」のつどいで花かご会が表彰されました

節子
昨日、暑い中を奈良と京都をいささか歩きすぎたせいか、今日はちょっと疲れが戻らないまま、帰宅後、ダウンしてしまっていました。
やはり歳には勝てないものです。
それに不思議なもので、帰宅した途端に長電話が入りだしました。
少しイライラしてしまって、失礼な対応をしてしまった人がいるかもしれませんがお許しください。
ちなみに、私が電話で持ちこたえられる時間は10分くらいですので、できればご承知おきを。

夕方、テレビを見ていたら、近くの柏の葉公園で行われた「みどりの愛護」のつどいが報道されていました。
皇太子ご夫妻も参加して、植樹などもされている様子が報道されていました。
この集まりで、花と緑の愛護に顕著な功績のあった約90の民間団体が表彰されたことも報道されていました。
節子も参加していた「花かご会」も国土交通大臣表彰を受けたはずです。
我孫子市役所の都市部長の渡辺さんから、表彰が決まった時に教えてもらっていましたし、花かご会の山田さんからもお聞きしていました。
今日はたぶん花かご会のメンバーも参加していたでしょう。
市役所の方が、いろいろとご尽力してくださったのでしょうが、とてもうれしいことです。
節子もきっと喜んでいることでしょう。

我孫子駅前の花壇は年々花が増えています。
節子もきっと見ているでしょうね。
最近はゆっくりお話しする機会があまりありませんが、またお祝いの声をかけることにしましょう。

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2016/06/11

■節子への挽歌3204:不思議なことが続いた良い一日

節子
奈良に宿泊していましたが、朝食前に奈良公園を散歩してきました。
シカにも出会えましたが、シカと話している人にも出会いました。
シカはみんな、平和そうでした。

興福寺の南円堂近くの一言観音堂で、お百度参りをしている女性がいました。
シカと違って、やはり人間は平和ではないのです。
不謹慎ながら、どんな願い事なのかなと気になりました。

一度、そこを離れたのですが、やはり気になってまた引き返しました。
さすがに、その人に訊くほど不躾なことはしませんでしたが、気になって後ろ姿をこっそり写真に撮ってしまいました。
悪気はなかったのですが、後で、私が写真を撮ったために願掛けが成就しなかったらどうしようと、反省しました。

しかし、なぜ戻ってまで写真を撮ってしまったのか。
実は、うらやましかったのです。
彼女にはきっと、自分を投げ出してまで守る人がいる。
そう思ったのです。
そして、私にもそう思っていた頃があったと気づいたのです。
しかし、その頃、私はお百度参りをしなかった。
なぜ気づかなかったのか。

そう言えば,ここは節子と最初に歩いたところです。
一人で奈良に行こうとしていた私が,電車で偶然,京都のおばさんの家に行こうとしていた節子に会い、一緒に奈良に行こうと誘ったのです。
それが、私たちの最初のデートだったのです。
その時、歩いたのもこの観音堂の階段でした。
その時の写真は、いまもはっきりと覚えています。
その写真を見て、私は節子に結婚でもしないかと言ったのですから。

そんな思いが一気に噴き出してきたのですが、なぜか心身があったかくなりました。
理由は全くわかりませんが、裸足で一心不乱に往復していた女性に感謝しました。
彼女に出会えたのには、意味があるのだという気がしたのです。
今日はきっと良い日になるだろうと思いました。
そして、そうなったのです。
今日は、良い日でした。

京都でTさんにお会いできました。
導きがあるとしか思えないのですが、まあそれはともかく、バスを降りた途端にお会いできたのです。
Tさんに会った途端に,なぜか私の抱えている問題が、自然と私の口から出てきたのです。
一度しか会ったことのないTさんが旧知の友のような気がしました。
今日は不思議な日にもなったのです。

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2016/06/10

■節子への挽歌3203:携帯電話を忘れました

節子
今日は朝の5時半に家を出て、奈良に向かっています。
企業の人たちとの合宿です。
奈良で行うという、ただそれだけの理由で、引き受けてしまいました。
3年ぶりの奈良です。

寝坊しないか心配だったのですが、無事新幹線に乗れました。
そこで、携帯電話を自宅に忘れてきたことに気づきました。
今日はなんとか乗り切れるとして、明日は夕方から人に会う予定ですが、その方とは一度しかお会いしたことがなく、しかも会う時間も場所も、携帯電話で打ち合わせることになっているのです。
会えるでしょうか。

iPadは持参していますが、フリーのWi-Fiがないと通信できません。
さてどうするか。
対策を考えなくてはいけません。
新幹線のなかではゆっくりと本でも読もうと思っていたのに、それどころではありません。
困ったものです。
しかし、こういう予期せぬ課題に会えばこそ、人生は退屈しません。

最近でこそ少なくなりましたが、以前はよく携帯電話を忘れました。
それで何度かけても電話にでないといって叱られたことがあります。
それで携帯電話が嫌いになり、八つ当たりですがその人も嫌いになり、使わなくなった時期もありますが、最近はすっかり携帯電話依存症です。
と言っても、相変わらず出ないことは多いのです。
たぶん信じてはもらえないでしょうが、私の携帯電話(いわゆるガラケイです)はマナーモードにしていなくても、時々、ならないのです。
持ち主の気分を感知しての配慮ある行為かもしれません。
何でならないことがあるのかと不思議に思い、他の人に頼んでかけてもらうと、不思議と必ず受信音がなるのですが。
ということは、私の携帯電話二は意思があるのかもしれません。
だとしたら、今日、私が携帯電話を忘れたのにも意味があるのでしょう。

まあそんなことはどうでもいいのですが、新幹線のゆったり旅気分は楽しめないでいます。
いま熱海を過ぎました。
対策を考えるのは、ホテルに着いてからにしましょう。
着いたら先ずは私がワークショップをすることになっています。
その準備もしなければいけません。
困ったものです。

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2016/06/09

■節子への挽歌3202:「愛する方に出会い支え合う関係になれる可能性は何%?」

節子
昨日、この挽歌を読んでくれている、若い女性に会いました。
彼女は昨年、あることで湯島に来てくれたのですが、今回、私の話を聴きにわざわざ来てくれたのです。
話している時にはまったく気づかなかったのですが、話し終えてから、声をかけられたのです。
その時に、彼女が挽歌を読んでいることを教えてくれました。
思ってもいなかったことです。
まさかまさか、という感じです。

そして今朝、こんなメールをもらいました。

佐藤さんのブログは寝る前の楽しみです。
一生のうちに愛する方に出会い支え合う関係になれる可能性は何%でしょうか?
私は独身ですし、佐藤さんと奥様のような生活を夢見ています。
他の女性の生徒さんも同意見でした。
若い女性が、こんな読み方をしてくれているとは、ちょっとうれしいです。
いささかの気恥ずかしさはありますが。

愛する方に出会い支え合う関係になれる可能性は何%でしょうか?
というのがもし私への質問であれば、100%というのが私の考えです。
なぜなら、ひとめぼれということはあるとしても、愛とは育むものだからです。
愛する人に出会うのではなく、出会った人を愛すればいいだけの話です。
支え合う関係もまた、育むものです。
そして、「支え合う関係」から、愛が生まれ育っていきます。
すべては、そうしようという、自らの思いから始まることなのです。

愛は、出会うものではなく、育てるものだということに、気づけば、相手は誰でもいいとは言いませんが、まあ誰でもいいかもしれません。
少なくとも、支える相手は、よほどのことがなければ、誰でもいいでしょう。
そして、誰かを支えることの喜びに気づけば、「支え合う関係」は自然と生まれ、育っていく。
そして、愛もまた生まれ育っていきます。
愛する人との支え合う関係をつくりだすのは、そう難しいことではないのです。

前にも書いたかもしれませんが、誰かに愛されるのは自分ではできませんが、誰かを愛するのは、その気になれば誰にもできることです。
愛していれば、相手から愛されなくても、何の問題もないでしょう。
愛や支え合いは、決して対称関係にはないのです。
すべての出発点は、よく言われるように自分なのです。
ですから、自分がその気になれば、だいたいにおいて、そうなるでしょう。
これが私の体験です。
ですから、きっとこの方も、愛する人との支え合う関係を実現するでしょう。

まあ、あんまり役にも立たないことを書いてしまいましたが、ブログの読者が話を聴きに来てくれたことが、とてもうれしいです。
今日は、ちょっと用事が立て込んでいて、疲れていたのですが、頑張って書きました。

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■惨めな舛添さんよりも権力に寄生した佐々木弁護士こそ糾弾されるべきではないか

相変わらずテレビでは、舛添都知事がロボットのように同じ言葉を繰り返しながら、頭を下げ続けています。
見ているだけで、悲しくなります。
問い詰めているほうも、その答えなど求めてはいないでしょう。
誰が見ても、舛添さんはリーダーとしてやってはいけないことをやってしまったのです。
そして、いまなおやり続けているのです。
違法行為かどうかなどは、些末な話です。
大切なのは、法の精神に即して、恥ずべき行為をしたかどうかであり、権力は法に守られるとしても、権威とリーダーシップは、信頼に支えられているのです。
すでに舛添さんは都知事の権威を失っていますから、実質的には知事の座にはもはやいないと考えていいでしょう。
そんな人をいつまでもいじめても仕方がない。
むしろ同情してやりたいくらいです。
よほど不幸な人なのでしょう。

むしろ私が腹立たしいのは、「第三者委員会調査」などというものをしゃあしゃあと記者会見までして発表した佐々木弁護士です。
この弁護士が、かつては検察にいたというから驚きです。
検察官とはどんな人たちであるか、またまた露見した感じです。
郷原さんのような元検事の方が、なぜもっとはっきりと糾弾しないのか。
テレビでの発言も聞きましたが、歯切れがよくありません。
本当にがっかりします。

調査もせずに、ただ依頼人の話をまとめただけの発表であれば、私なら1日でできるでしょう。
その報告をまじめに聞いていた記者の人たちにも驚きますが、なんでみんな席を立たなかったのか。
私には、無能としか思えません。
ちょっとだけ突っ込んだ記者がいましたが、佐々木弁護士の答えに唖然としたのか、一瞬の沈黙がありました。
もう少し突っ込んで、みんなで退席したらよかったでしょうに。

それにしても、佐々木さんのような弁護士が日本の司法を担っているのです。
言葉を選ばずに言えば、佐々木さんの調査活動は詐欺としか思えませんが、こういう人に頼むしかない舛添さんには同情したくなります。
舛添さんは大学の優等生だったそうですが、大学の成績が全く無意味なことにも、みんな気づいてほしいです。

こういう人たちが、権力を支えていると思うと、恐ろしくなります。
司法界の人たちは、何とも思わないのでしょうか。
動かなければ、同じ穴のムジナと思われても仕方がないのですが。

しかし、そう思いつつ、気になってテレビを見てしまう自分も、嫌になります。
悲しい時代です。

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2016/06/08

■節子への挽歌3201:穴のあいた背広

節子
出かける時はそうでもなかったのですが、夏のように暑くなってきました。
今日はめずらしく背広を着て湯島に来ました。
最近は背広を着るのは月に1回程度です。
節子がいなくなってから、背広はつくっていませんので、もう10年以上前のものしかありません。
今日、しばらく着ていなかった背広を着ようと思ったら、虫に食べられた穴が背中に開いていました。
手入れなどしておらず、着たものはクリーニングに出してもらっていますが、着ないものはまあいいかと放ってあるのです。
でもまあ小さな穴だから誰も気づかないでしょう。
着替えるのが面倒なので、そのままそれで着て、出てきてしまいました。

今日はビジネススクールで話をすることになっていますが、後ろを見せないようにしなければいけません。
しかし、話しながら教室を歩いてしまうかもしれないので、要注意です。
虫に食われた背広を着ている講師の話は、説得力がないでしょうね。
さて、どうなるか。

妻がいなくなると、身の回りの世話をしてくれる人がいなくなるので、身なりが一変する人がいますが、幸か不幸か、私はたぶんそう大きくは変わっていないでしょう。
それは節子も、そうしたことに比較的無頓着だったからです。
しかし、そうはいっても、私自身は気づいていないところで、みっともない状況になっている可能性はかなりあります。
なぜなら誰も注意してくれないからです。
娘が時々、手厳しく注意することもありますが、たぶん諦めているでしょう。
服装には全くと言っていいほど興味がないのです。

とはいうものの、こだわっていることはあります。
自分が着る服に、ブランドマークや文字が入っているのは、だめなのです。
自分の身体を広告媒体にすることは、生理的に受け付けないのです。
シャツを買う時も、マークが入っているとだめなのです。
だから私が着るカジュアルウァアを見つけるのは、それなりに難しくて、節子は苦労していました。
そんなわけで、私の着る衣服は、いま払底していて、今日は何を着ればいいか困ることが多いのです。
ですから、いつも同じようなTシャツばかり着ているのです。

年齢のことも考えて、それなりにきちんとした服を着るようにといっていた節子も娘も、結局はあきらめました。
たぶん死ぬまで、良いものを着ることなく、終わりそうです。
さて、そろそろ出かけましょう。

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2016/06/07

■節子への挽歌3200:苦があるから楽があり、楽があるから苦がある。

節子
気が重い話もあれば、元気が出る話もあるのが、人生です。
今日は、そのふたつがどっさりと降りかぶさってきました。

まずは、つらい話ですが、とりわけ辛い話が2人から届きました。
お一人はメールで、お一人はお会いしての話です。
ふたりから、同じ言葉が出てきました。
「ぽっかり穴が空いた」です。
友を見送り、愛する人を見送った、まったく別々の友人から、まったく同じ言葉がでてきたのです。
ぽっかり穴があくと、人生を歩きにくくなります。
その体験をしているが故に、気にはなりますが、こればかりはどうしようもできません。

実は、この数日、元気がどうも出ないため、気分転換に国立西洋美術館に向かっていた途中、電話がかかってきたので、予定を変えて、友人に会ったのですが、そこで出てきたのが、「ぽっかり穴が空いた」でした。
人生はうまくいきません。

しかし、人生はよくしたもので、元気が出る話もありました。
湯島でいささか精神的にダウンしていたら、ある件の相談で別の友人が来ました。
予定していたミーティングです。
しかし、その友人もちょっと疲労気味だったようで、今日は相談はやめて雑談にしようと言い出しました。
それで2時間ほど雑談をしました。
ふたりとも気分的に疲労気味だったせいか、何やらわけのわからない話をしていた気がしますが、帰り際にその友人が楽しかったと言ってくれました。
そういえば、私も少し元気が出ました。

そこから流れが少し変わりました。
元気が出る話が入りだしたのです。
発達障害の友人から、お誘いを受けました。
仲間を紹介したいというのです。
来週早速会うことにしました。
夜には新しい組織の立ち上げのミーティングをしましたが、大筋の合意ができて、動き出せそうです。
帰宅したら、ちょっとうれしいメールが届いていました。
悩ましく思っていた問題が解決しました。

人生は、苦もあれば楽もある。
苦があるから楽があり、楽があるから苦がある。
それがこの頃、とても納得できるようになってきています。

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2016/06/06

■節子への挽歌3199:付き合っていて煩わしくないのが伴侶

節子
人との付き合いは難しいです。
人との付き合いには、必ずと言っていいほど、なにか行き違いが生じます。
私のように、かなり我儘に付き合っていても、それは避けられません。
ですから、本当は人との付き合いはできれば避けたい。
それが本音です。
今日は自宅で1日過ごしましたが、人に会わないとわずらわしさがなくて幸せです。
心の平安が保てます。

しかし、人に会わないでいると、どこかさびしくなります。
人と会うのが嫌いなはずなのに、人と会わないではいられない。
そこがややこしいところです。
昨日、ある人に、あなたもそうでしょうと言ったら、その人からそうだと即答が返ってきました。
たぶんみんなそうなのです。

会うとわずらわしいのに、会わないとさびしい。
人とは複雑な存在です。
昨日会った人は、私と同じく、伴侶を喪った人です。
伴侶とは、付き合っていても煩わしさがない人だと私は思っています。
逆に言えば、付き合っても煩わしさを感じない人が、私にとっての伴侶なのです。
でも多くの場合、伴侶と付き合うのも煩わしいと言う人が多い。
私にはそれがあまり理解できません。
煩わしかったら、伴侶であることをやめればいいだけのことですから。

人と付き合うのが煩わしいことだということを意識しだしたのは、実は節子がいなくなってからです。
人と会わないとさびしくなるということを意識しだしたのも、節子がいなくなってからです。
昨日会った人もそうなのでしょうか。
それを訊くのを忘れました。

ちなみに、今日は誰にも会わずに心の平安が保てると思っていたら、ふたりの友人から長電話をもらいました。
ちょっと心が乱れました。
それで少し過激な発言をしたら「佐藤さんは厳しい」といわれてしまいました。
自分の未熟さを実感して、また自己嫌悪に陥りそうです。

そして夜になって、今度は苦手の人からある問い合わせがメールできました。
その人の、あまりに不躾な態度に、私はめずらしく縁を切りたいほどの怒りを感じているのですが、彼女は私が応援していると思い込んでいるのです。
もしかしたら、周囲の人もそう思っているかもしれません。
さてさてどうしたものか。

やはり人と付き合うのは、平安をもたらしてはくれません。
付き合って、平安をもたらしてくれたのは、節子だけです。
そして、その節子は、私の平安をと一緒に、先に旅立ってしまったのです。
悪いのはすべて節子なのかもしれません。
困ったものです。

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■カフェサロン「ベーシックインカムを考える」の報告

昨日のカフェサロン「ベーシックインカムを考える」は15人の参加がありました。
最初から異論反論が噴出し、サロン初参加の話題提供者の三木さんは驚いたかもしれません。
三木さんは、ベーシックインカムの本質を話題にするために、いまの経済のおかしさを、信用論や需給構造の話から話し出したのですが、その段階で議論が噴出しだしてしまったのです。
三木さんの話をきちんとお聞きしてから話し合いを始めればよかったのですが、交通整理する私自身が議論に入り込んでしまい、サロンを議論の場にしてしまいました。
それに参加者があまりに多彩で、話し合いの視点があまりにも多核的でした。
あまりに話し合いが広がり紛糾したため、いつも以上に報告が難しく、どうしたものかと悩んでいるのですが、今回はサロンの報告はやめて、私が感じたことを一つだけ報告させてもらうことにしました。

ベーシックインカムとは、wikipediaによれば、「最低限所得保障の一種で、政府がすべての 国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に 支給するという構想」ですが、私は、基本的には社会の成員みんなが生きていける状況を保証して、自分らしい生活をできるようにする考えを具現化する仕組みと捉えています。
そして、大切なのは、その基本にある思想ではないかと思います。
それは、所得配分の問題や経済の問題ではなく、社会をどうとらえるかという問題です。
わかりやすく言えば、「社会とは働くものがつくっているものではなく。そこに存在する者すべてによって成り立っている」と捉えるということです。
昨日も、労働だけが「価値」を生み出すという議論がありましたが、その発想こそ、問題にされなければいけません。
労働はともかく、「働く」ということを「社会に役立つ行為」と捉えれば、それは「対価」とは無縁のことです。
働いて対価を得られない人にベーシックインカムを「恩恵的に」支給して、生きていけるようにするというベーシックインカムは、現状の経済スキームと何ら変わりません。
そうではなく、存在するだけで「社会に役立っている」という考えが、ベーシックインカムの一つの捉え方です。

こう書いてくるとわかりにくいかもしれませんが、その実例は私たちの身近にあり、しかも、それによってたぶん人類はこれまで大きな存在になってきたのです。
その実例とは、「家族」です。
家族の一員である乳幼児は対価を得る労働はあまり出来ませんが、存在するだけで家族に役立っています。
身体が不自由になった高齢者も同じかもしれません。
しかし、家族の一員は、「労働」しなくても生きていけます。
家族の一員であることによって、「ベーシックインカム」は保証されているのです。
家族を超えて、「同族集団」もまた、大きな意味でのベーシックインカムが保証されていたように思います。
かつては、リーダーの使命は、民を飢えさせないことでした。

もし「ベーシックインカム」をそういう視点で捉えると、それは現代の社会や経済のあり方への代替案の提案になっていきます。
改善案ではないのです。
したがって、単に制度を導入するという話ではなく、制度づくりの理念や方法を考え直すということです。

ちなみに、若い参加者から、もし数万円の生活支援費がもらえたら、金銭に呪縛されずに自らの能力を発揮させられる仕事に取り組めるかもしれないというような話がありました。
いまの日本社会は、みんな生活を維持するための労働に呪縛されているため、せっかくの「能力」を発揮できずにいる人が多いでしょう。
そう言う人たちが、自らの能力を発揮できるようになれば、社会は活力を取り戻し、後ろ向きの社会コストは削減できていくでしょう。
それこそが、本来的な「お金」の使い方だと私は思いますが、そこにどういう思想を盛り込むかによって、効果は「両刃の剣」になるでしょう。

ベーシックインカムを所得配分政策と捉えてしまうと、相変わらず金銭呪縛の社会から解放されない気がします。
何もしなくても餌を与えられて生きている家畜のような存在になっていいのか。
そうなってしまえば、社会はむしろ停滞していくでしょう。

19世紀初頭のアメリカを旅行したフランスの思想家トクヴィルが、自由の有無がいかに人間の生活を変え、自由の侵害がどんな社会的・経済的な状況をもたらすのかを報告しています。
当時、まだアメリカの南部では奴隷制が残っていました。
トクヴィルは、奴隷の少ない州ほど、人口と富が増大しているという点に注目します。
そして、奴隷制のない北部と奴隷制度が残っている南部を見て周り、北部では黒人も白人も生き生きと働いているのに対して、南部では働いている人が見つからないと報告しています。
彼は、「奴隷の労働の方が生産性が低く、奴隷の方が自由な人間を雇うより高くつく」と言っています。
ベーシックインカムと、まったく無縁でもない話のような気がします。

サロンはいささか混乱したかもしれませんが(私の責任です)、三木さんのおかげで、いろんな論点が見えてきたような気がします。
参加者のお話も気づかされることが多かったです。

ちなみに、昨日は、スイスで成人の国民全員に毎月30万円、子供に7万円を支給するベーシックインカムの国民投票が行われたそうです。
また、フィンランドでも試験的な導入が決まっています。
昨日参加してくださった大野さんから、国連が支援して、以前ナミビアの寒村でのベーシックインカム社会実験が行われたことも知りました。
そうしたことからも、いろいろと気づかされることがたくさんありました。

三木さん、参加者のみなさん
ありがとうございました。
いつかまたパート2を開催したいです。


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2016/06/05

■「それでもボクは会議で闘う」ノ周防さんに感銘を受けました

先日も書きましたが、湯島で、「司法サロン」を始めるつもりです。
日本の司法はあまりにもひどいと思うからです。
原子力ムラと同じような法曹ムラができているのは仕方がないとしても、法曹ムラの人たちは強大な「暴力機構」に巣食っているが故の、恐ろしさがあるからです。
私はこれまで弁護士もその仲間だと思っていました。
ですから、弁護士もあまり信頼できずにいました。
認識を改める契機は、大学の時の同窓生の弁護士に会ってからです。
そして司法のことをもう少し知らなければいけないと思い出しました。

先日、ある裁判に巻き込まれてしまった友人が湯島に来ました。
その話も生々しかったです。
腹立たしいですが、立ち向かうのは至難です。
こんな経験を何回かしていますが、これまでは深入りしたことがありません。

以前、湯島に公安警察が踏み込んできたことがあります。
私が直接の被疑者ではなく、私の友人がある嫌疑をかけられ、その調べに来たのです。
慇懃無礼さの後ろに、居丈高の権力を実感させられました。

75年も生きていると、いろんなことを体験します。
私自身はまだ裁判に巻き込まれたことはありませんが、傍聴に行ったことはあります。
あまりのばかばかしさに、それ以来、傍聴に行く気は起きませんが、それもやはり反省すべきかもしれません。

司法サロンを始めるために、いま何冊かの本を読みだしています。
その1冊が、映画監督の周防正行さんの「それでもボクは会議で闘う」(岩波書店)です。
厚生労働省の村木厚子さんが巻き込まれた「郵便不正事件」での検察の証拠捏造が契機になってつくられた法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」に、法律家でない有識者委員の一人として3年間参加された人です。
そこでの論議を、ていねいに、しかもしっかりした主張を基軸において、紹介してくれています。
それを読むと、やはり日本の司法には失望どころか、絶望さえ感じかねませんが、周防さんの姿勢には感動しました。
周防さんは極めて誠実に書いていますので、専門用語も多く、読むのに疲れますが、私は感動しました。

部会の最後に周防さんが話ことが最後に紹介されています。
長いですが、とても大切根メッセージだと思うので、紹介させてもらいます。

法律の専門家の皆さんと3年間にわたって話し合う機会を得たことで、正直に申し上げれば、刑事司法の内実に少しだけ詳しくなった分、最初の頃感じていた刑事司法の現状に対する素朴な「驚き」、「疑問」、いわば市民感覚のようなものが、自分自身、非常に薄れてきているように感じます。これはどんな世界でもそうかもしれませんが、自分がその新しい世界へ入った時の戸惑い、驚き、違和感といったようなものが、徐々にその世界の常識に染まることで、何の疑問を持つこともなく、当たり前のこととなっていきます。(中略)是非、法律の専門家の皆さんにも心に留めておいていただきたいのは、専門家であるが故に当たり前に思っていることが、決して多くの市民にとっては当たり前のことではない、ということです。専門家に任せておけば良いのだ、ということではなく、多くの市民にも理解できるように言葉を早くしていただきたいと思っています。その責任が専門家にはあると思います。
この周防さんの言葉に、涙が出そうになりました。
決して読みやすい本ではありませんが、多くの人に読んでいただきたいです。

いつか湯島のサロンに周防さんに来てほしいと思いました。
どなたか周防さんの親しい友人の方がいたら、お願いしてもらえないでしょうか。

http://astore.amazon.co.jp/cwsshop00-22/detail/4000237292

Suou

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2016/06/04

■節子への挽歌3198:他者の夢に寄生した生き方

節子
今日もまたいろんなことがありました。
動き出すと、いろんなことが動き出すものです。
いささか疲れた1日でした。
しかし何かが動き出すとなぜか元気が戻ってきます。

そういえば、一時期、あまり前向きでなかったTさんが、久しぶりに長電話をしてきました。
最後の本にすると言っていた本を書き上げたところなのですが、その勢いで、またもう一冊、本を書く気になったようです。
本だけではありません。
その本を活用した活動もしてもいいと言い出しました。
半年前とは全く違います。
やはり人は目標を持つと元気になるのです。

私は、自分自身、もう目標を持つ気はないのですが、何かをやりたいという気配を感じた人には、目標を持って動き出すように働きかけることはしています。
そしてできるだけそれを応援するようにしていますが、いつもうまくいくわけではありません。
なぜうまくいかないかは、長いことそういう生き方をしているおかげで、よくわかります。
わかっているのに、そうならないのは、残念なのですが、人の生き方は違いますから、押しつけることなどできません。
それに、そうやっても、かならずうまくいくというわけでもありません。

しかし、自分では目標を立てず、友人知人に目標を意識化させて、その実現に取り組むように働きかけるというのは、いわば「他者の夢に寄生した生き方」とも言えるかもしれません。
最近の私の生き方は、そんな傾向があるかもしれません。
困ったものですが、自分の夢が見られなくなった以上、仕方がないのかもしれません。

人はパンだけでは生きていけない。
人生にはバラが必要だという話を、最近また思い出すことが多いです。
しかし、いまの私にはやはり、バラはふさわしくありません。
もちろん、パンなどはもっと不要ですが。

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2016/06/03

■節子への挽歌3197:お布施人生

節子
なぜか最近、私にきちんとお金を稼がせたいと思っている人が増えています。
昨日も電話がありましたが、今日もまたそんな話がありました。
ていねいにではなく、かなりぶっきらぼうに電話でお断りしたのですが、私が経済的に困っていると思われているのかもしれません。
たしかに困っていないとはいえませんが、世間的にはそれでもかなり恵まれていますので、お金のために自らの生き方を変えるつもりはありません。

私には「稼ぐ」という概念はありません。
私が目指しているのは、お布施です。
だれかの役に立つ。
役に立ったと思った人が、私にお布施をくれる。
お布施は、何でもいいのですが、もし金銭であれば、その額は私が決めることではないと思っています。
お布施は、その人が思った額でいいのです。
契約で対価を決めるなどというのは、私の好みではありません。
それこそ、自分を貶めるような気がするのです。
私が誰かに役立ったとしても、それを金銭などに置き換えてはほしくないのです。
それが私の基本的な考えです。
お礼はどうしたらいいですかと訊かれたら、おいしい珈琲をご馳走してくださいと言うしかありません。
珈琲が飲みたいわけではありません。
お礼をしたければ、相手に訊かずに思った通りにお布施をすればいいだけの話だと思うのです。
お礼は、その人の自発的な行為でなければいけません。
同じことをしても、受け取るお布施は大根1本のこともあれば、100万円のこともある。
私にはどちらもとてもうれしいです。
しかし、お布施は、布施する人の心を見事に象徴します。
2本しかない大根の中から1本くれるのと、100本もあるのに1本しかくれないのとでは、同じ1本でも、意味は全く異なるからです。
布施の世界は、そこにある種の恐ろしさがある。
人の本性が見えてきます。
だからこそ、私は、布施を大事にしています。

だからといって、金銭を特別視するつもりはありません。
同情するなら金をくれ、というセリフが昔ありましたが、そのセリフにも共感します。
ただただ黙ってお金をやればいいだけの話です。
相手が本当にお金で救われるのであれば、です。
そういう時はあります。
私も、お金がある時には、そうしていました。
いまはなくなったので、できないだけの話です。

私は、時々、どうやって食べているのかと訊かれますが、会社を辞めてから28年目に入りますが、この考えで何とか何不自由なく生きています。
こういう生き方ができるようになったのは、たぶん節子の支えがあったからだと思っています。
鼻持ちならぬ嫌な奴、と思われそうですが、お金で生き方を変えたくはないのです。

心配して下さる方々には、もちろん感謝はしていますが、私の生き方をわかってもらえると、うれしいです。

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■カフェサロン「サンチアゴ巡礼と四国巡礼」のお誘い

友人の鈴木章弘さんが、昨年は70日かけてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩き、今年は四国八十八箇所を40日かけて歩いてきました。
鈴木さんは、歩くことは、話すことと同じく、ヒトの特殊な能力だと言います。
私風に言いかえれば、ヒトは話しながら考えるように、歩きながら考える。
しかし、話しながら考えることと、歩きながら考えることは、もしかしたらまったく違うことかもしれません。

むかし、鈴木さんから教えてもらって読んだベルナール・オリヴィエの「ロング・マルシュ(長い歩き)」という本がありますが、そこに「歩くことがどれほどの力を発揮するものかを発見するのに、60年かかった」と書かれていました。
オリヴィエが、60年かかって気づいた「歩く力」とは何か。
また、オリヴィエは、歩くことで、現代の狂気に気づき、文明化によって忘れられつつある「おもてなし」にも触れられたと書いています。
サンティアゴ巡礼を終えた後、私は、何回か鈴木さんと会って話を聞く機会をもらいました。
話していて、まさに、オリヴィエの言葉を思い出しました。

私一人で、鈴木さんの話を聞くのは、いかにももったいないので、サロンを開くことにしました。
いつもは寡黙な鈴木さんは、巡礼のことになると話しが止まらないほど、饒舌になります。
さて、どんなサロンになるか。
巡礼報告の話になるかもしれませんが、「狂気とおもてなし」の哲学談義になるかもしれません。
いずれにしろ、私たちが忘れかけていることへの気づきをもらえるような気がします。

多くのみなさんの参加をお待ちします。

○日時:2016年6月19日(日曜日)午後1時半~4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「サンチアゴ巡礼と四国巡礼で感じたこと」
○話題提起者:鈴木章弘さん(休筆中のライター)
○会費:500円

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2016/06/02

■節子への挽歌3196:なにやらワクワクするような感じに包まれています

節子
またいくつかのシンクロニシティが起こりだしています。
それとともに、いろんな電話やメールが入りだしました。
まさに、何かから「誘われている」という感じが押し寄せてきています。
まわりで、たくさんの「新しいこと」が芽吹きだしているのです。

いまはまだ暇で暇でしょうがない状況にいますが、もしかしたら暇でなくなるかもしれません。
そうなれば少しは時間的ゆとりができるようになるかもしれません。
まあ、こういう説明は、多くの人には伝わらないかもしれませんが、物理的な時間に追われている時は、要するに暇だというのが私の考えなのです。
あることに熱中できれば、暇な時間など生まれてきません。
そもそも「時間」という概念さえなくなるのです。
若いころは、そういう状況になれることがありました。
最近はそんな「熱い時間」を過ごせることはありません。

いずれかの「誘い」に乗ったら、暇から解放されるでしょうか。
そうかもしれませんが、いずれの「誘い」にも乗れないかもしれません。
シンクロニシティが起きた時には、飛ばなければいけません。
しかし、どうも飛べないのです。
そしてたぶん何かのチャンスを失ってしまう。
こんな繰り返しをこれまで何回もしています。
なぜ飛べないのか。
飛べないのは、飛ぼうとしないからだけのことです。

まわりでいろんなことが始まると、それだけでなんだか楽しくなって、何もやっていないのに、やっているような気になりがちです。
いま私は、まさにそんな状況にあります。
しかし、こうした状況は間もなく終わるでしょう。
私が飛ばないからです。
私を暇の世界から引き出してくれるような世界は、もうないのかもしれません。

今日だけでも、3つの新しい組織が生まれそうです。
たぶん、生まれることは間違いないでしょう。
しかし、こういろいろあると、私自身は飛ぼうにも飛べないのです。
だから、暇で暇で仕方がない世界で、時間に追われていることになるわけです。

暇を暇でなくしてくれた節子がいないのが、とても寂しいです。
暇だったので、今日もまた、やらなければいけないことができずにいます。
さてどうしたものか。
まあ、どうにかなるでしょう。
暇な時には、切羽詰まらないと、何もやる気は起きません。
困ったものです。

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■「新しい判断」

「再び延期することはない。ここでみなさんにはっきりとそう断言する」と明言して、安倍首相は衆議院を解散しましたが、その公約に反して、また消費税増税を再延期しました。
そして今度は、「公約違反ではないかとの批判があることも真摯に受け止めている」が、「新しい判断」について参院選で国民の信を問うと話しています。
なぜ「公約」が守られなかったのかは、語られていません。

今回の再延期の理由は、経済の停滞です。
「世界経済のリスク」などという言葉も使われていますが、野党からは「アベノミクスの失敗」だと指摘されています。
念のために言えば、前回の延期の時に、安倍首相は、経済成長率などを増税実施の判断材料にする「景気条項」を消費増税法から削除しています。

それにしても、「新しい判断」とは感心しました。
過去はともかく、「新しい判断」の是非を問題にする。
そのどこが悪いのか。
昨今の日本の社会状況を見ていたら、消費税増税の再延期に反対する人は多くはないでしょう。
目先の生活で言えば、私も出費が増えないので、どこかでよかったと思っているような気がしないでもありません。
もっとも私はほとんどお金を使わないので、消費税が上がってもあんまり影響は受けないと思いますが。

でも、果たして喜んでいて、いいのか。
私が危惧するのは、消費税や財政赤字ではありません。
「新しい判断」という発想です。
そこに含意されているのは、「約束の軽視」であり、「自省の放棄」です。
今回の件で言えば、自らの取り組み(アベノミクス)の失敗によって公約(消費税増税による社会福祉の充実と財政健全化)が果たせなくなったと考えるべきだと、私は思いますが、そこは全く触れられることなく、ともかく「新しい判断」を評価してくださいと呼びかけているわけです。
やはり根本的におかしいのではないか。

「新しい判断」という言葉で思い出したのは、「ニュースピーク」です。
ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に出てくる言葉ですが、従来の言語に代わる新しい言語を国民に押し付けることで、国民の思想を管理し、権力者の行動に反する思考ができなくなるようにするという話です。
もちろん「新しい判断」と「ニュースピーク」は、違うものです。
しかし、なんとなくつながっているような気がして、気が重くなってきました。
こんな言葉を流暢に使う人が国家を方向づけている。
そして多くの国民とメディアが、その政府を支持している。
政府に異を唱える動きは、たとえば現在の沖縄の問題がそうであるように、マスメディアの協力によって、見事に覆い隠されてしまっている。
もしかしたら、すでに私たちは、「ニュースピークの世界」に生きているのかもしれない、という気がしてきました。

テレビでは、都知事の(私には瑣末な事件としか思えない)事件を、大きく取り上げています。
こうした「サーカス的な見世物」の背後で、「ニュースピークの世界」が着々と進んでいると思うと、恐ろしくなります。

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2016/06/01

■節子への挽歌3195:トウモロコシとさつまいもを植えてきました

節子
今日は畑に行ってきました。
頑張って、トウモロコシとさつまいもを植えてきました。
ついでに、メロンまでも。
うまくいけば収穫祭ができそうな勢いです。
といっても、今年はまだ収穫がありません。
キャベツは毛虫に食べられて丸くならないですし、白菜かなと思っていたら、黄色い花が咲いてしまったり、ともかくいろいろと植えたのでわけがわからなくなっています。
その上、キュウリもナスも今年は何回植え直しても元気になりません。
じゃがいもは去年の名残りがかなり芽を出しているので、それを育てることにしました。
果たして芋が育ってくれるかどうかわかりませんが。
しかし、今年の目標は、「見た目で畑に見えること」です。

斜面の花壇に巻いておいた百日草も目を出し始めました。
先日、新しいタネを買ってきたのですが、少し様子を見ようと思います。
ひまわりの種も蒔く予定です。
しかし、道路沿いは、アジサイにしようかと思い出しました。
今年は間に会いませんが、来年はアジサイで道沿いを飾る予定です。
こんなことをやっていると、いつまでたっても、彼岸には旅立てませんが。

そんなわけで今日はかなり鍬仕事をしました。
危うくトカゲを切ってしまいそうになったりしましたが、今日はいろいろな小動物に会いました。
彼らにとっては、私は悪逆非道な侵略者になるのでしょうね。
生きるということは、そういうことなのでしょう。

実は、そんなことをやっている時間はなかったのですが、やりたい気分になってしまったのです。
相変わらずどこかで優先順序を間違えているのです。
しかし、まあそれが私の優先順序なのかもしれません。
気分が向いたことからやってしまう。
節子にいつも注意されていましたが、この習癖は、なかなか変わりません。
困ったものです。

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■現代書館の「反メディア論」をお勧めします

あっせん利得処罰法違反などの疑いで告発されていた前経済再生担当大臣の甘利さんを、東京地検特捜部は嫌疑不十分で不起訴にしました。
あれだけの証拠があるのに、不起訴になるとは思ってもいませんでした。
司法の世界は、どうもよくわかりません。

現代書館の「反メディア論」を読みました。
映画作家の森達也さんとジャーナリストの青木理さんとの対談です。
大きく取り上げられているのが、刑事司法の問題です。
特に死刑制度に関するところは、多くの人に読んでほしいところです。
拉致問題や沖縄に関するところも、興味深いです。

この本を読んで、やはり私たちは「司法の実体」をあまりにわかっていないことに改めて気づきました。
そこで、湯島で「司法」をテーマにした連続サロンを継続できないかと考えました。
これまでも何回か考えたことはありますが、踏み切れませんでした。
一度、友人の弁護士に頼んで、サロンを開催しましたが、その友人は大阪なので、連続開催は無理でした。
別に司法界の人がいなくてもできる話ですが、単なる雑談会にはしたくありません。
どなたか協力して下さる司法界の方はいないでしょうか。
いないとしても、まずはスタートするつもりです。

それはそれとして、先の「反メディア論」(現代書館)はお勧めです。
もちろん同書は、メディアをテーマにした対談集ですが、とても共感できます。
ちなみに、青木さんとは面識はありませんが、わたしがいま信頼できる3人のジャーナリストのおひとりです。

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■沖縄を考えるカフェサロン・パート2のご案内

伊勢志摩サミットやオバマの広島訪問などの報道の影になってしまって、沖縄の問題が見えなくなってきていることに、危惧の念を持っていますが、昨年12月に辺野古の報告をしてくださった、緒方修さん(東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長)のお時間をいただけましたので、辺野古サロン・パート2を開催することにしました。

前回参加してくださった皆さんはもとより、参加されなかった方も、この機会にぜひ、沖縄の辺野古の実情を知ってもらえればと思っています。
前回の案内にも書きましたが、沖縄の辺野古で起こっていることは、私たちの未来に深くつながっています。
そして、私たちの生き方にも深くつながっています。
ぜひ多くのみなさんに参加していただければと思っています。

緒方修さんは、長年、文化放送に勤められた後、沖縄大学などで教鞭をとられ、併せてさまざまな活動に取り組まれてきました。
1999年から那覇にお住まいで、現在はNPO法人アジアクラブ理事長でもあります。
最近、花伝社から「歩きはじめた沖縄 沖縄の自然と歴史、そして辺野古」も出版されましたので、そのお話も聞けるかと思います。

○日時:2016年6月20日(月曜日)午後6時半~8時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「辺野古からのメッセージ」
○話題提供者:緒方修さん(東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長)
東アジア共同体研究所http://www.eaci.or.jp/
○会費:500円
○参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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