■節子への挽歌3207:孫が元気に育っています
節子
節子の孫のお宮参りでした。
私はついていきませんでしたが、その前後に親子3人でわが家に寄ってくれました。
私も誘われましたが、行くのを辞めました。
もし節子がいたら、もちろん私たちも一緒に行ったのですが、どうも私一人だと、行く気分になれません。
おそらく、節子がいないことで、孫の誕生を祝う気持ちも高まらないのかもしれません。
名前は、信じがたいことに「にこ」と名付けられました。
アルファベットでの表記は、Nicoです。
イタリアを意識しているのです。
私は娘たちの名前をカタカナにしてしまったので、大いに反省しています。
それにもかかわらず、娘がまさか、私と似たような発想で命名したことが意外でした。
私と同じように、後々後悔しなければいいのですが。
私は、なにかに呪縛される生き方から自由になりたいと子どもの頃から思っています。
ですから子供の名前も、意味をもたせないように、カタカナ表記にしたのです。
しかし、そもそもそれは、呪縛されないということに呪縛されてしまっていたのです。
そして、どんな名前を付けようと人は名前に呪縛されることを娘を通して実感させられました。
私の名前は「修」です。
それは、私にとっては記号以上のものではなく、みずから自分の名前を意識したことさえありません。
しかし、昔、あるテレビドラマで「佐藤修」という役名の人が登場しました。
その人はドラマの中で殺害されるのですが、なにか不思議な気持ちでした。
名前に呪縛されないで生きることは不可能だと思いました。
私ではない「佐藤修」さんと一緒に食事をしたことがあります。
JTのプロジェクトに関わった時ですが、当時のJTの広報部長のお名前は「佐藤修」でした。
そういえば、大学入試の時に、私の隣の人もまた「佐藤修」でした。
「節子」もよくある名前です。
しかし、「節子」という名前に出会うとドキッとします。
やはり名前は大きな意味をもっているのです。
名前はともかく、孫は少しずつ「人間」らしくなってきました。
しっかりと目戦が合うようになってきましたし、会話はともかく、コミュニケーションはできるようになってきた気がします。
節子がいたら、どんなに喜んだことでしょうか。
そう思うと、とても不思議な気分になります。
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