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2016/06/17

■私には死刑を実行する勇気がありません

2010年、宮城県石巻市で殺人事件を起こした、当時18歳の少年の死刑が確定したというニュースを知って、それが頭から離れません。
報道によれば、この事件は、裁判員裁判で少年を死刑とした唯一の事件で、「市民らが少年に対して死刑を選択した判決が初めて確定する」(TBS系テレビでの報道)とされています。
「市民らが少年に対して死刑を選択した」という表現が、私の心を呪縛してしまったのです。

たしかに被告が起こしたことは、許しがたいことです。
最高裁の大谷裁判長は、「少年とはいえ深い犯罪性に根ざした犯行で、責任は重大だ」として、上告を棄却しています。
それには異論がないのですが、しかしだからといって、死刑が正当化されるわけではありません。
こうも言えるのです。
「(死刑とは)国家とはいえ深い犯罪性に根ざした行為で、責任は重大だ」。

これも報道によれば、犯行時に未成年だった被告に死刑判決が確定するのは山口県の光市母子殺害事件以来だそうです。
私が、死刑制度についてきちんと考えだすきっかけになったのが、この事件です。
当初は、被害者の夫による「死刑求刑」に共感さえ持ちました。
もし私が同じ立場だったら、死刑を望むのではないかと思ったからです。
しかし、そのブログを読んだ、見ず知らずの関さんという方からの指摘もあり、軽々に死刑論への共感を口にしてはならないと気づかされました。
どんな理由があっても、人の命を奪うことなどあってはならないとすれば、そもそも死刑制度などあっていいはずはなく、それはただ国民支配のためのものであると気づいたのです。
そのあたりのことは、このブログでも連続シリーズで書いたことがありますが、
私が死刑制度に反対する理由は簡単で、私には死刑執行ができないということなのです。

最近さまざまな世界と触れ合う中で、確信を持ててきたことの一つが、この世には純粋な加害者も被害者もいないということです。
被害者が、加害者以上に加害者性が強いと思うこともありますし、社会そのものが弱い立場の人を犯罪に追い込んでいる事例も少なくありません。
今回死刑が確定した少年も、そこに至る前での経緯はそう簡単ではないでしょう。

裁判員だった方が、「自分の出した結論がいいのか悩み続けて、つらくて」と語っています。
被害者の遺族の方は、「被告人が死というものに向き合うことで、初めて、娘があじわった恐怖や無念さを理解でき、反省や後悔の気持ちを抱くような気がしてなりません」と語っています。
被告は裁判の前に、「どんな判決が出ようとも被害者と遺族のことを考えていきたい。本当に取り返しのつかないことをした。一番謝らなければならない被害者本人には謝ることさえできません。今は空に向かって手を合わせて祈ることだけ」と語ったそうです。
この3つの発言を繰り返し読みましたが、やはりどこか間違っているような気がしてなりません。
何かとても大切なことが、いずれからも抜けているように思うのです。

私は、いつも、当事者の立場に立って、一人称自動詞で考えることを大切にしています。
もし私が、被告であり、遺族であり、裁判員であったら、違った答が出るだろうか。
一晩考えて出てきた答えは、「同じ答だ」でした。

少年を死刑にする社会には、やはり私は居心地の悪さを感じます。

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