■節子への挽歌3197:お布施人生
節子
なぜか最近、私にきちんとお金を稼がせたいと思っている人が増えています。
昨日も電話がありましたが、今日もまたそんな話がありました。
ていねいにではなく、かなりぶっきらぼうに電話でお断りしたのですが、私が経済的に困っていると思われているのかもしれません。
たしかに困っていないとはいえませんが、世間的にはそれでもかなり恵まれていますので、お金のために自らの生き方を変えるつもりはありません。
私には「稼ぐ」という概念はありません。
私が目指しているのは、お布施です。
だれかの役に立つ。
役に立ったと思った人が、私にお布施をくれる。
お布施は、何でもいいのですが、もし金銭であれば、その額は私が決めることではないと思っています。
お布施は、その人が思った額でいいのです。
契約で対価を決めるなどというのは、私の好みではありません。
それこそ、自分を貶めるような気がするのです。
私が誰かに役立ったとしても、それを金銭などに置き換えてはほしくないのです。
それが私の基本的な考えです。
お礼はどうしたらいいですかと訊かれたら、おいしい珈琲をご馳走してくださいと言うしかありません。
珈琲が飲みたいわけではありません。
お礼をしたければ、相手に訊かずに思った通りにお布施をすればいいだけの話だと思うのです。
お礼は、その人の自発的な行為でなければいけません。
同じことをしても、受け取るお布施は大根1本のこともあれば、100万円のこともある。
私にはどちらもとてもうれしいです。
しかし、お布施は、布施する人の心を見事に象徴します。
2本しかない大根の中から1本くれるのと、100本もあるのに1本しかくれないのとでは、同じ1本でも、意味は全く異なるからです。
布施の世界は、そこにある種の恐ろしさがある。
人の本性が見えてきます。
だからこそ、私は、布施を大事にしています。
だからといって、金銭を特別視するつもりはありません。
同情するなら金をくれ、というセリフが昔ありましたが、そのセリフにも共感します。
ただただ黙ってお金をやればいいだけの話です。
相手が本当にお金で救われるのであれば、です。
そういう時はあります。
私も、お金がある時には、そうしていました。
いまはなくなったので、できないだけの話です。
私は、時々、どうやって食べているのかと訊かれますが、会社を辞めてから28年目に入りますが、この考えで何とか何不自由なく生きています。
こういう生き方ができるようになったのは、たぶん節子の支えがあったからだと思っています。
鼻持ちならぬ嫌な奴、と思われそうですが、お金で生き方を変えたくはないのです。
心配して下さる方々には、もちろん感謝はしていますが、私の生き方をわかってもらえると、うれしいです。
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