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2016/06/06

■カフェサロン「ベーシックインカムを考える」の報告

昨日のカフェサロン「ベーシックインカムを考える」は15人の参加がありました。
最初から異論反論が噴出し、サロン初参加の話題提供者の三木さんは驚いたかもしれません。
三木さんは、ベーシックインカムの本質を話題にするために、いまの経済のおかしさを、信用論や需給構造の話から話し出したのですが、その段階で議論が噴出しだしてしまったのです。
三木さんの話をきちんとお聞きしてから話し合いを始めればよかったのですが、交通整理する私自身が議論に入り込んでしまい、サロンを議論の場にしてしまいました。
それに参加者があまりに多彩で、話し合いの視点があまりにも多核的でした。
あまりに話し合いが広がり紛糾したため、いつも以上に報告が難しく、どうしたものかと悩んでいるのですが、今回はサロンの報告はやめて、私が感じたことを一つだけ報告させてもらうことにしました。

ベーシックインカムとは、wikipediaによれば、「最低限所得保障の一種で、政府がすべての 国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に 支給するという構想」ですが、私は、基本的には社会の成員みんなが生きていける状況を保証して、自分らしい生活をできるようにする考えを具現化する仕組みと捉えています。
そして、大切なのは、その基本にある思想ではないかと思います。
それは、所得配分の問題や経済の問題ではなく、社会をどうとらえるかという問題です。
わかりやすく言えば、「社会とは働くものがつくっているものではなく。そこに存在する者すべてによって成り立っている」と捉えるということです。
昨日も、労働だけが「価値」を生み出すという議論がありましたが、その発想こそ、問題にされなければいけません。
労働はともかく、「働く」ということを「社会に役立つ行為」と捉えれば、それは「対価」とは無縁のことです。
働いて対価を得られない人にベーシックインカムを「恩恵的に」支給して、生きていけるようにするというベーシックインカムは、現状の経済スキームと何ら変わりません。
そうではなく、存在するだけで「社会に役立っている」という考えが、ベーシックインカムの一つの捉え方です。

こう書いてくるとわかりにくいかもしれませんが、その実例は私たちの身近にあり、しかも、それによってたぶん人類はこれまで大きな存在になってきたのです。
その実例とは、「家族」です。
家族の一員である乳幼児は対価を得る労働はあまり出来ませんが、存在するだけで家族に役立っています。
身体が不自由になった高齢者も同じかもしれません。
しかし、家族の一員は、「労働」しなくても生きていけます。
家族の一員であることによって、「ベーシックインカム」は保証されているのです。
家族を超えて、「同族集団」もまた、大きな意味でのベーシックインカムが保証されていたように思います。
かつては、リーダーの使命は、民を飢えさせないことでした。

もし「ベーシックインカム」をそういう視点で捉えると、それは現代の社会や経済のあり方への代替案の提案になっていきます。
改善案ではないのです。
したがって、単に制度を導入するという話ではなく、制度づくりの理念や方法を考え直すということです。

ちなみに、若い参加者から、もし数万円の生活支援費がもらえたら、金銭に呪縛されずに自らの能力を発揮させられる仕事に取り組めるかもしれないというような話がありました。
いまの日本社会は、みんな生活を維持するための労働に呪縛されているため、せっかくの「能力」を発揮できずにいる人が多いでしょう。
そう言う人たちが、自らの能力を発揮できるようになれば、社会は活力を取り戻し、後ろ向きの社会コストは削減できていくでしょう。
それこそが、本来的な「お金」の使い方だと私は思いますが、そこにどういう思想を盛り込むかによって、効果は「両刃の剣」になるでしょう。

ベーシックインカムを所得配分政策と捉えてしまうと、相変わらず金銭呪縛の社会から解放されない気がします。
何もしなくても餌を与えられて生きている家畜のような存在になっていいのか。
そうなってしまえば、社会はむしろ停滞していくでしょう。

19世紀初頭のアメリカを旅行したフランスの思想家トクヴィルが、自由の有無がいかに人間の生活を変え、自由の侵害がどんな社会的・経済的な状況をもたらすのかを報告しています。
当時、まだアメリカの南部では奴隷制が残っていました。
トクヴィルは、奴隷の少ない州ほど、人口と富が増大しているという点に注目します。
そして、奴隷制のない北部と奴隷制度が残っている南部を見て周り、北部では黒人も白人も生き生きと働いているのに対して、南部では働いている人が見つからないと報告しています。
彼は、「奴隷の労働の方が生産性が低く、奴隷の方が自由な人間を雇うより高くつく」と言っています。
ベーシックインカムと、まったく無縁でもない話のような気がします。

サロンはいささか混乱したかもしれませんが(私の責任です)、三木さんのおかげで、いろんな論点が見えてきたような気がします。
参加者のお話も気づかされることが多かったです。

ちなみに、昨日は、スイスで成人の国民全員に毎月30万円、子供に7万円を支給するベーシックインカムの国民投票が行われたそうです。
また、フィンランドでも試験的な導入が決まっています。
昨日参加してくださった大野さんから、国連が支援して、以前ナミビアの寒村でのベーシックインカム社会実験が行われたことも知りました。
そうしたことからも、いろいろと気づかされることがたくさんありました。

三木さん、参加者のみなさん
ありがとうございました。
いつかまたパート2を開催したいです。


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