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2016年7月

2016/07/31

■節子への挽歌3253:炎天下の畑

節子
また暴挙に走ってしまいました。
夕方畑に行けなくなりそうなので、曇っていたので午後1時に畑に行ってしまいました。
この時間帯には畑は厳禁といわれていたのですが、思い立ったらやってしまうのが私の悪癖です。

畑に行くと、待っていましたとばかりに、野草が私を挑発してきます。
仕事は山ほどあるのです。
少し作業をしていたら、急に雲がなくなり、強い日差しが襲ってきました。
帽子が嫌いなので、まったくの無防備です。
しかし、これしきの事にめげてはいけないと熱さを我慢して、野草との闘いをつづけました。
汗がひっきりなしに出てきます。
熱中症対策として、水分を並々とコップ一杯一気に飲んで出てきたせいかもしれません。
炎天下で、頭はどんどん熱くなる。
さすがにこれはまずいと思い、10分ほどで引きあげてきました。
自宅についたら、再び汗の洪水。

ところが、自宅についてすぐに、また太陽は雲の中に隠れ、風が吹きだしました。
あのひとときの強い日差しは、私への警告だったのでしょうか。
なんだかお天道様にもてあそばれた気分で、すっきりしません。
しかし、さすがにもう一度、出かけようという気にはなれません。

それで、へこたれずに、庭の手入れをすることにしました。
節子がいたら、なんでこんな時間にやるのかと注意するでしょうが、幸いにいませんで、やってしまうことにしました。
実は畑から追ってきたミニトマトの枝を仮植えしていましたが、それを地植えすることにしたのです。
いつもは、花が植えられているところにです。
花よりトマトというわけです。
こんな時間に植え替えて大丈夫かどうかいささか心配ですが、ミニトマトにも苦難は必要です。
しかし、やはり外で動くと暑いです。

夕方から出かけるので、エアコンの恩恵を受けられるかもしれません。
わが家にもリビングにはエアコンはあるのですが、壊れてしまっているのです。
困ったものですが、今年はまだわが家でエアコンの恩恵を享受したことがないのです。

しかし2時半を過ぎたら、風が涼しくなってきました。
きっとどこかで雨が降り出したのでしょう。
雨の香りは、かなり遠くからも伝わってくるものです。
今夜は、涼しくなるといいのですが。

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2016/07/30

■都知事選に思うこと(投票日前編)

明日は都知事選挙です。
選挙ですから結果はどうなるかわかりませんが、私は最初から小池さんが当選するだろうと思っています。
ほかの2人の候補者の動きと比べたら、格段の違いだからです。
選挙前から勝負はもう決まっていたような選挙です。

小池さんの戦いぶりには真剣さを感じますが、ほかの2候補の戦い方は情けないほどに貧弱です。
そもそも応援依存ばかりで、だれが知事になるのかわかりません。
私のまわりでは鳥越さん支持者が多いのですが、私は彼をまったく信頼できません。
増田さんにいたっては、主体性や自らの覚悟が感じられません。
小池さんは、私とは真反対の政策を志向してきた人ですが、その思考は明確です。
そして、そこに人生をかけている。
小池さんは、私には都知事には一番なってほしくない人ですが、安倍首相がそうであるように、多くの人に危機感の覚醒を与えてくれる存在になるかもしれません。

それにても、報道を見ていて、日本ではまだ効果的な選挙ができるほど、民度は熟していないと感じます。
少なくとも有力な3人の候補者は、何も語っておらず、政策とは無縁なパフォーマンスとけなし合いだけです。
時に語られる、例えば保育環境の改善に関しても、現場とは程遠い観察者の発言ばかりです。
保育園が足りないのではありません。
保育環境が劣化しているのです。
問題の捉え方がこれまでと同じです。
そこからは何も忌まれないでしょう。
つまり「哲学」がなく「誠実さ」がないのです。

3人以外の18人の候補者のメッセージがテレビで紹介されることが今回の変化かもしれません。
そこにとても新鮮さを感じます。

しかし、初の女性都知事の誕生は、何か大きな変化を期待させられるような気もします。
どんな結果になっていくか、幾ばくかの期待もあります。

もっとも、小池さんが当選しないこともないわけではないでしょう。
いやたぶんそんなことはないと思いますが、私の予想が外れたら、うれしいような悲しいような、複雑な気分になりそうです。

無駄話をすみません。

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■節子への挽歌 3252:人はなぜ歩くのか

節子
ベルナール・オリヴィエの「ロング・マルシュⅡ」を読みました。
前に読んだ作品の2巻目です。
前作に関しては、この挽歌でも書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2013/11/post-6504.html

著者のオリヴィエは、61歳から64歳までの4年間をかけて、イスタンブルから西安まで、12000キロにおよぶシルクロードをたったひとりで歩きとおしました。
その記録を3冊の本にまとめていますが、今回読んだのはその2巻目です。
今日、この本を読んだのは、朝、図書館に行ったら、新着の書棚に偶然この本があったので、読もうという気が起きたのです。

あとがきに著者のことが書かれていました。
長いですが、引用させてもらいます。

フランス北部ノルマンディー地方の貧しい家に生まれたベルナール・オリヴィエは、努力の末にジャーナリストとなり、よき妻と2人の息子に囲まれて充実した生活を送っていた。ところが、著者が51歳のとき、25年間連れ添った妻が死んだ。心臓発作でパリの路上に倒れ、1か月の昏睡状態の後、著者の誕生日に亡くなったのだという。著者はその死を受け入れることができず、仕事に打ち込むことでやりすごしていたが、心の空洞が埋まらないまま退職の日を迎える。息子たちはすでに自立して家を離れていた。やりたいこともなく、なんの希望も持てない孤独な年金生活。落ち込みは激しく、自殺を考える。だが、うまくゆかなかった。それで、逃げることにした。パリの家から重いザックを背負って2300キロ、スペイン西端のキリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンボステラに通ずる巡礼の道を歩いたのだ。

悲しみから逃げるために、彼は歩きはじめたのです。
サンティアゴ巡礼路を歩きながら、彼はこう気づきます。

歩きに歩くうちに気がついた。自分は思っていたような老いぼれじゃない。歩きの幸福に酔い、生きる意欲がもどってきた。歩くことの治癒力は、どんな抗鬱剤にもまさるのだ。

こうして彼の「歩く人生」が始まりました。
そしてついに、12000キロのシルクロードを踏破しました。
そしてさらにいろいろと歩いているうちに、一人の女性に出会い、やがて一緒に暮らしはじめるのです。
75歳の著者は言っています。

生涯で2人のすばらしい女性に出会いました。私はほんとに運がいいんです。まず妻です。それからベネディクトに出会いました。4年前から一緒に暮らしていますが、4年間で一度も喧嘩したことがないんですよ。ほんとにうまく行っていて、もう言うことなしです。

ベネディクトに会って、彼のマルシュは終わったでしょうか。
実は、最後にもう一度、今度は2人で歩いたそうです。
その記録は今年の5月に刊行されたそうですが、翻訳が出るのはかなり先になりそうです。
これまでの作品とはかなり違っているようですので、興味があります。

人は、どうしたら歩くのをやめられるのか。
歩き出したのが愛のためであれば、たぶん歩くをやめたのも愛のためでしょう。
私もそろそろ歩くのをやめようかと思うことがあります。
オリヴィエとは、違ったマルシュではありますが。

ちなみに、「ロング・マルシュ」を教えてもらったのは、巡礼人の鈴木さんからです。
鈴木さんにまた話を聞きたくなりました。


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■節子への挽歌3251:夏が来ました

節子
朝、起きて、玄関に行ったら、行方不明になっていたカブトムシが出てきていました。
どこを探訪していたのか知りませんが、ほこりだらけになっていました。
そこできゅうりに加えて、桃を食事に供し、少し休んでもらってから庭に彼らの部屋ごと移すことにしました。
これまでの経験から、まあ居座ることはなく、結局はどこかに行ってしまうのですが、懲りずにもう一度試みることにしました。
昨日、出て行ってしまった2匹は、その後、音沙汰ありません。
困ったものです。

昨日から庭でミンミンゼミがにぎやかです。
たぶん庭の土中から出てきたセミでしょう。
セミの羽化の様子は、感動しますが、今年はまだ見たことがありません。
セミの抜け殻も、あまり見かけません。
しかし梅雨も明け、夏が本格化してきましたので、いよいよセミの季節です。

庭では琉球朝顔が元気です。
手入れをしていなかったら、庭中にツルを延ばし、他の樹木にも絡まりだしました。
琉球朝顔の元気さには、驚きます。
おかげで、犠牲になった花木もあります。
昨年植えた皇帝ダリアまでもが、からめ捕られそうなので、心配です。

畑からミニトマトの枝を2本切って庭に植えることにしました。
ミニトマトは、挿し木が簡単にできます。
畑の場合、週に2回くらいしか行けないので、熟したトマトが落っこちてしまっていて、いつも申し訳ないと思っていますが、庭で熟してくれれば、毎朝、食べられますので、お互いにハッピーになれます。

今日は、来客もあるので自宅なのですが、時間がありそうなので庭の整理を少ししようかと思っていましたが、油断していたら、もう暑さが増してきました。
熱中症になるといけないので、静かに過ごそうと思います。
久しぶりに本を読む気にもなってきました。
暑い庭にでて、日陰をつくっての読書もいいかもしれません。
暑い夏は、熱さを楽しまなければいけません。
熱中症にならないようにエアコンを使いましょう、というテレビでの呼びかけに応ずる気持は全くありません。
その発想を捨てなければいけないと、ずっと生きてきていますので。

節子ならきっとわかってくれるでしょう。


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2016/07/29

■措置入院への不安

その後の相模原障害者施設事件の報道に接していて、世間は何も変わっていない、と思います。
自らの生き方を問い質した人は、どれほどいるでしょうか。
自分は今回の加害者とは別だとみんな思っているのでしょうか。
自らもまた、「障害者」だという認識を持った人はどれほどいるでしょうか。
相変わらず、「障害者」は特殊な存在だという報道ばかりです。
とてもさびしい気がします。
さらに不安を感じるのは、措置入院が問題になってきたところです。
問題が違った方向を向いているのではないのか。
私が、その対象になったらと思うと、恐ろしくなります。

この事件は、いまの社会の本質を示唆しているように思えてなりません。
加害者の考えは、許されないとか、異常だとか、みんなそう語ります。
もちろん私もそう思います。
しかし、だからといって、彼はいまの時代風潮と無縁なのか。
彼は、本当に、私とは別の世界の特殊な存在なのか。
そして、許されないと語っている人の中には、人を差別する意識はないのか。

いまの時代風潮をよく見れば、同じような風景はいたるところにみられます。
ヘイトスピーチは、そのわかりやすい例ですが、それだけではありません。
学校にも企業にも、程度の差こそあれ、それにつながる発想や言動はないのか。

私は、彼のような行動を支えている、時代の風潮を感じます。
それは、個人の尊厳をおろそかにする風潮です。
正規社員と非正規社員の構造の中にも、それを感じます。
出産前診断に見られるような、優生学的な発想の動きも少なくありません。
強いものが勝っていく競争を是とする社会そのものの中にも、今回の加害者の言動につながるものを感じます。
自分は加害者の言動と全く無縁だと断言できる人が、どのくらいいるでしょうか。
時代が、彼のような存在を生み出してしまったのではないか。
そんな気がしてならないのです。

障害を持っている人が、加害者に怒りを持つことは、当然です。
私も怒りを持ちますし、怒りをぶつけたい。
しかし、それで怒りを解消したくはありません。
もっと怒りを向けるべき相手があるのではないか。
障害者を障害者として扱う社会にこそ、怒りを持つべきではないのか。
彼に怒りをぶつけるのではなく、彼を生み出した社会に対して怒りをぶつけていかなければ、事態は変わらない。
私が、世間は何も変わっていないと思うのは、そうした報道ばかりが流れていることです。
みんな他人事としてしか語らない。
加害者を非難する前に、まずは自らの生き方を問い質すことが大事なような気がします。
私としては、自分の中にある差別意識にしっかりと対峙する機会にさせてもらいました。

前に書いたことがありますが、精神病院の脱施設化を実現したイタリアの話を思い出します。
どうやら日本は、それとは真逆の方向に向かっているようです。
障害者施設もまた、私は脱施設化を目指すべきだと思いますが、それが実現するには、多くの人たちが、障害者などという発想を捨てて、多様な人たちと、人として付き合う余裕を持つようにしなければならないでしょう。
すぐにはそれは難しいでしょうが、せめてそれを目指す生き方をしたいものです。

今回の事件ほどひどくはないとしても、同じような事件は決して少なくないでしょう。
私たちは、そうしたことへの関心をもっと高めていきたいものです。
もしかしたら、自分も加害者的な言動をしていないかの反省も含めてです。

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■節子への挽歌3250:しばらくの同居者

節子
この数日、わが家には同居者がいたのですが、みんなわがままで勝手に家の中を散策していたようです。

3日ほど前、ジュン家族からプレゼントをもらいました。
カブトムシ2匹とクワガタです。
家のベランダにやって来ていたのだそうです。
なんで私にプレゼントされたか、といえば、昔から私はそうした生き物が好きだったからでしょう。
私自身の言動の結果でしょうが、節子がそういう私の生き方を面白がって付き合っていたということもあります。
いずれにしろ、そういう生き物と、同棲したいという思いが昔から強くあります。
しかし、そのために犠牲になった生き物はいます。
沢蟹はなじめなかったようですし、鈴虫は手入れ不足で絶滅しました。
ですから、最近は無理やり同棲を要求はしていないのです。
いまの庭の池は、沢蟹には絶好の環境なのですが。

もらった3匹を少し大きめの虫籠に入れ、キュウリと蜂蜜を与えて、一晩休息を与えた後、庭に放そうと考えていました。
ところが、朝、起きてみると1匹のカブトムシしか残っていませんでした。
戻ってくるだろうかと心配していたら、残りの1匹もいつの間にかいなくなってしまっていました。
困ったものです。

昨夜、娘が2階でクワガタを見つけました。
わが家に来た時には元気がなくて心配だったのですが、とても元気になっていました。
そこで暗かったのですが、わが家の庭に放しました。
もう大丈夫でしょう。
安心しました。

そして今朝、娘がカブトムシを見つけました。
彼は1階のリビングの入り口にいたそうです。
この2日間、食べるものもなかったはずですが、やはり元気そうでした。
不幸にして、わが家にはあまり樹液が出る樹木がないのですが、彼がつかまりやすい樹に放したら、元気に上まで登っていきました。

問題は残りの1匹です。
いささか心配ですが、寄ってきそうなところにはちみつを塗った樹をおいています。
戻って来てくれるといいのですが。
まあみんな私と同じくわがままのようですが、一宿一飯の仁義というものがあるはずです。
わが家の庭に住みついてくれるといいのですが。

生き物との同棲は難しいものです。
いまはメダカが10匹、元気ですが、金魚はあまりなついてくれません。
それに3.11以降、なぜかわが家の庭の池に魚を放しても、死んでしまうのです。
新たに金魚を放すのも、いささか躊躇します。
いまは何とか3匹ががんばっていますが、毎朝、彼らが元気かどうか心配です。
ガマガエルが入らないようにネットを張りましたが、油断はできません。

そういえば、先日、娘と一緒の時に、すぐ近くでハクビシンに出会いました。
わが家の庭に住んでくれたら、安住できるのですが、その意図を伝える方法がわかりません。
困ったものです。

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2016/07/28

■節子への挽歌3249:朝の日課

節子
広島の折口さんがメールしてきてくれました。
折口さんの朝の始まりは、こんな感じだそうです。

朝起きて、まず愛犬の表情を見てから山道のお散歩コース!
続いて甕に住んでいるメダカ集団に谷川の水を足してから餌やり、
その後金魚の水槽の状態を把握して餌やり、
これが毎日朝夕の日課となっています。
どの生物も私に癒しの時間を与えてくれます。

豊かな毎日を送られている折口さんの姿が目に浮かびます。
といっても、実は私は折口さんにお会いしたことがありません。
もう10年以上のお付き合いになりますが、電話かメールか手紙だけの接点です。
実に不思議なご縁です。

そのメールを読んで、私も今朝は、少しだけ見習いました。
メダカと金魚に声かけと餌やりを行い、庭の花木の水をたっぷりとやりました。
畑にも行こうかと思いましたが、今日は出かけなければいけないので、やめました。
明日は畑もメニューにいれようと思います。

折口さんも言うように、生き物は癒しの時間を与えてくれます。
動かない花木も、その気になれば、声が聞けます。
自然と触れ合うことが、生きているということなのかもしれません。

庭の花木に水をやりながら、そういえば、節子がいた頃は、これが私の日課だったと思い出しました。
その日課さえ、忘れて、9年が経とうとしています。
庭が荒れてしまったのは、当然です。
畑だけではなく、庭も回復しなければいけません。
小さな庭とはいえ、一度、荒れてしまうと元に戻すのは大変です。
なにしろ相手は生き物ですから。

生きる意志が強いかどうか。
昨今、あまりにも「いのち」を軽んずる社会の風潮に、私自身の生き方を重ねて、反省しました。
私もあまり他者のことを言える資格がないのかもしれません。
明日からは、朝の日課を守ろうと思います。

今日は、さわやかな朝です。
良い一日になるでしょう。

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2016/07/27

■節子への挽歌3248:墓地に親しみを感じました

節子
久しぶりにお墓に行きました。
最近、嫌なことが多いので、まあ厄払いもかねてですが、お墓に行ったら厄払いができるのかどうかわかりません。
それでも一応、節子と両親に墓前で般若心経をあげてきました。

お墓で気づいたことがあります。
久しぶりのせいか、奇妙に親しみを感じたのです。
昔は、お墓が好きではありませんでした。
というよりも、怖かったのです。
お恥ずかしい話ですが、大人になっても怖さは残っていました。
夜、一人でお墓には行けなかったのです。
でも、たぶん今ならば行けそうです。
ただしどこのお墓でも、というわけではないかもしれません。
今日なんとなく感じたのは、節子や両親がいる宝蔵院の墓地であれば、夜、一人でも来られるなと思ったのです。
それくらい、不思議な親近感を持ちました。
そこに節子がいるからなのでしょうか。

節子が彼岸に行ってから、死とかお墓とかいうものへの感じ方が変わりました。
それを感じたのは、節子の葬儀の通夜の時でした。
以来、現世と彼岸の区別が、私の中では曖昧になってしまっています。
時々、私はまだ現世にいるのだろうかと思うことがあるほどです。

今日は、もう一つ厄払いしてきました。
お墓から帰っても、まだ明るかったので、畑に行きました。
畑で生い茂る野草と闘ってきたのです。
植物の成長速度は、信じられないほどに早いです。
ひとつの花の苗畑は、野草で覆い尽くされてしまっていました。
それでも百日草の種を蒔いておいたところは、苗が出ていて、野草に勝っていました。
野菜も何とか頑張っています。
メロンが実をつけ、トウモロコシも実がなってきました。

野草と話しながら闘っていると、生きることの罪深さを感じられます。
少しは厄払いができたでしょうか。

明日もまた早いです。
本が読めないので、またたまってきてしまいました。
たまっているのは本だけではありません。
気が萎えていると、物事の進み方が遅いです。
困ったものですが。


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2016/07/26

■節子への挽歌3247:人は記憶の産物

節子
気が萎えた時に、元気をもらえるテレビ番組があります。
前にも書きましたが、「小さな村の物語 イタリア」です。
この番組を見ると、心がやすまります。
ただし、自分の生き方を反省させられることも多いのですが。

先週放映されたものを見ました。
人と人の距離が近い、村の物語でした。
そこではみんなとても豊かに暮らしています。
今回の主役の一人は、村の高齢者の昔話を聞くのが好きな若者でした。
もうひとりの主役は、その地域の言葉を残そうと辞書をつくってしまった高齢者です。
その人が、「人は記憶の産物」だと語りました。
記憶を大切にしなければいけません。
私はこれまで過去にはほとんど関心がありませんでした。
節子は「思い出づくり」を大切にしていましたが、私は「思い出」は好きではなかったのです。
それを少し反省しました。

節子はいま、私の記憶の中で一番生き生きと生きているでしょう。
にもかかわらず、私はその思い出を思い出すことに積極的ではありません。
私にとっては、思い出の中にいる節子ではなく、いまを生きる節子だからです。
しかし、いまを生きる節子などいるはずもない。
そこに私の混乱があるのかもしれません。

人が記憶の産物であれば、私の記憶から節子がいなくなった時、節子も私もいなくなるのかもしれません。
私にとって私がいなくなることはありませんから、節子はやはり、ずっと生きている。

また何やらわけのわからないことを書いてしまいましたが、Oさん、気は確かなので、ご心配は不要です。
今朝はご心配をかけてすみませんでした。
あの電話で、またいろいろと考えてしまったのですが、もう元気です。

今朝の挽歌を読んで、Oさんは遠くから電話してきてくれたのです。
人に心配をかけるとは、困ったものです。はい。

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■障害の所在

前の「事件を見る視点」の補足です。

障害者という言葉には、違和感を持っている方もいます。
「害」という文字に抵抗があるようです。
「障害者」ではなく、「障碍者」とか「障がい者」と書く人もいます。
私にはいずれも同じように感じますが、相手の思いを大事にして、使い分けるようにしています。
しかし、ある時、障害者の息子さんを持つ人から、そんなことはどうでもいいと言われたことがあります。
話す場合は、私は基本的には「障害を抱えている人」という表現を使うことも多いのですが、これもなんだか言い訳めいていて、自分でもすっきりしていません。

なぜすっきりしないのか。
それは、「障害」が人に置かれているからです。
そうなれば、人が「障害」になってしまいかねません。
その視点を変えなければいけません。

昨日の事件の加害者は、「障害者のいない社会」がいい社会だと発言しています。
これは危険な発想です。
なぜなら、障害のない人などこの世にはいないからです。
その範囲をどうやって決めるのか。

この言葉から、「者」と「い」という、2つの文字を削除して、「障害のない社会」と置き換えたら、誰も反対しないでしょう。
加害者が、そこまで思いを深めてくれたら、悲劇は起こらなかったかもしれません。
問題の本質は、そこにあるように思います。
彼が問題提起した時に、誰かがそのことを指摘してほしかった気がします。
いや、こうして事件が起きたいま、テレビで解説する誰かが、一人でもこういう指摘をしてほしいです。

障害の所在は個々の人にあるのではなく、人が生活する社会環境にあるのです。
そう考えると、障害福祉の捉え方は一変するはずです。
これは、障害者問題に限りません。
生きにくくなったのは、社会が「障害」を増やしているからなのです。
そして、そうした「障害」を増やしているのは、私たちかもしれません。

福祉の概念を一変させなければいけません。
それが行われないと、福祉は市場化の餌食になりかねません。
市場とは「問題」のあるところに生まれます。
障害を人に置いてしまうと、福祉産業という市場が生まれるのです。
私はこれを「近代産業のジレンマ」と呼んでいます。
近代産業は、問題解決型の発想ですから、人が障害を持つほどに市場は拡大します。
でもそれはどう考えてもおかしい。
人を基軸にして考える発想が、私には納得できます。

15年ほど前に、福祉や環境を産業化するのではなく、産業を、福祉化。環境化するようにベクトルを反転させなければいけないと書きましたが、残念ながらそういう方向にはまったく来ていません。
悲しい話です。

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■事件を見る視点

相模原市の障害者施設で、痛ましい事件が起こりました。
今日のテレビは朝からその報道ばかりです。
その施設で半年前まで働いていた若者が、利用者19人を殺害したのです。
あまりの衝撃に、アメリカのホワイトハウス高官がコメントまで出しました。
私には、いかにも「白々しく」感じましたが。

こういう事件が起こると、私がまず考えるのは、加害者のことです。
もしかしたら、加害者こそが一番の被害者ではないかという気がしてならないのです。
実状を知らないくせに、そういう発想をするのは危険であることは承知していますが、昨今の社会情勢を考えると、どうもそういうところから「事件」を見るようになってきてしまっているのです。
なぜ学校の先生を目指していた、明るい若者が、こんな事件を起こしてしまったのか。
同じ時代を生きる私には、責任はないのか。

そういう視点で、事件の報道を見ていると、いつも不満に感じます。
事件の詳細や加害者の個人情報は詳細に語られますが、背景に関してはあまり語られることはありません。
障害者施設の働く現場や利用者の置かれている現場が、どうなっているのか、きちんと報道されることは少ないのです。

こういうことが2度と起こらないように対策を検討しますなどという、意味のない答弁ではなく、もし本当にこうしたことを起こしたくないのであれば、障害者施設の実態を変えていかねばなりません。
言い換えれば、それは「社会保障」の理念や社会の価値観を変えることになるかもしれません。
そうした根本的な社会のあり方に目をやらずして、軽々に対策などと語ってほしくはありません。

いまからもう45年前になりますが、「ルポ・精神病棟」という本が出版されました。
記者だった大熊一夫さんが、「アル中患者」と偽って、ある精神病院に入院した現場体験報告です。
その後、日本の精神病院は変わったと思いたいですが、最近の大熊さんの本を読んでも、その変わりようはさほど大きくはないような気がします。
数年前に私のところに来た精神病院のスタッフの方から、お聞きした話も衝撃的でした。
一時、改善されるかに見えた精神病院の実態は、また向きを変えつつあるような感じでした。

これは精神病院の話ですが、障害者施設はどうでしょうか。
見学はしたことはありますが、私自身は利用したこともそこで働いたこともありません。
ですが、その周辺からいろいろと聞いている話から、小さな事件が起こるたびに不安を感じていました。
そして今朝のこの事件。
やはり私が最初に思ったのは、加害者のことです。
はっきりいえば、加害者への同情です。
時代が、あるいは私たちの生き方が、彼を加害者にしてしまったのではないか。

今朝、そうした施設にも関わったことのある方から電話をいただきました。
こういう事件がいつか起きるのではないかと心配していた、とその方はお話になりました。
昔は、施設のスタッフも余裕があったし、スタッフと利用者が人間的な関係を持てたと言うのです。
いまはスタッフと利用者はもとより、スタッフ同士さえ、人間的な関係が持ちにくくなっていることは、私もいろんな人からお聞きしています。
私たちは、何かを大きく失ってしまっているのかもしれません。

事件の報道姿勢も、もしかしたらそうした事情を加速させているようにさえ思います。

ちなみに、今朝、電話をくださった方は、もしかしたら、私が「加害者」になることを懸念されていたのかもしれません。
そう考えるのはいささか考えすぎでしょうが、そうなってもおかしくない時代になってきているように思います。
今回の加害者の若者は、決して、私と無縁の存在ではないことを心したいと思っています。

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■節子への挽歌3246:反省すべきは常に自分

節子
生きていると、楽しいことにも付き合えますが、嫌なことにも付き合わなければいけないことがあります。
嫌なことが増えてくると、生きることに押しつぶされそうになります。
こうしたことを、一度でも体験していないと、他者を思いやることは難しいかもしれません。
注意しないといけないのは、「思いやること」が相手を「追いやること」につながっていくことも、あることです。
「思いやった」つもりが、思わぬ「反撃」を引き起こすことがある。
自分の生き方の甘さの咎を、いま受けています。
この2週間、気分がすぐれないのは、そのせいです。
だからといって、生き方を変えるつもりはないのですが。

よく、佐藤さんのまわりに集まる人たちは、特殊だからといわれます。
実際にはそんなことはなく、私ほどさまざまな人たちに接している人はいないのではないかと思っていたこともあります。
しかし、それは私の思い上がりであることを最近痛感しています。
私が接している世界は、ほんの小さな世界でしかないのです。
世界は実に広い。
そして、人は実に多様です。
もしかしたら、世の中には「悪い人」がいるのかもしれない。
そんな疑心が浮かんできそうです。

他者の気持ちなど、わかりようもない。
自分はいささか世間から脱落している。
そんな気に、最近落ち込んでいました。
昨日も、ある集まりで、そう感じました。
しかし、話しているうちに、まさにそう思うのは自分の心がゆがんでいるからだと気づきました。
そして、その心のゆがみに気づけば、人はわかり合える。
人がわかりあえないのは、それぞれが自らを防衛しているからではないか。
私が、これまで自分の生き方ができてきたのは、無防備だったからではないか。
それなのに、最近少し防衛的になってきているのではないか。

反省すべきは、常に自分です。
迷いを解きほぐしてくれる人がいないのは、本当につらいです。
伴侶やパートナーも持たずに、一人で頑張っている人たちを尊敬します。

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2016/07/24

■第1回リンカーンクラブサロンは10人の参加でした

第1回目のリンカーンクラブサロンを開催しました。
代表の武田さんの新著「子どもたちを戦場に送らない勇気」を読んでの感想を出し合うことから始まりました。
本の前半の現政権批判は論点が分散しすぎて、何を伝えたいかがよくわからなかったが、後半のメッセージはよくわかった。
制度に関しの議論が多いが、制度を使っていくのは人間だから、国民の主権者意識を高めていくことが大切ではないか。
日本の政治に大きな影響を与えているアメリカとの関係があまり語られていない。
自民党の改憲案を論ずる場合、現行の日本国憲法だけではなく、大日本帝国憲法とも比較するともっとわかりやすいのではないか。
平和権的基本的人権(参加した川本さんが以前から提唱している概念)という視点から考えていくことも効果的ではないか。
いろいろと論じられているが、どうしたらいいかをもっと絞ってメッセージしてほしい。

ほかにも、代表を選ぶ選挙のあり方や国民投票制度に関する議論もかなりありました。

さらに、リンカーンクラブそのものについても厳しい問いかけがありました。
民主主義と民主制とは別のものであり、むしろ民主制に焦点を絞ったほうがわかりやすいのではないか。
リンカーンをタイトルにするとアメリカの民主制をイメージしてしまうので、「リンカーン」のタイトルを捨てたらどうか。
これについては、リンカーンクラブのホームページのブログ欄で、リンカーンクラブとしての考え方を書いていこうと思います。

今回は、現在の政権に批判的な人たちが集まりましたが、大学生も一人参加してくれました。
こういう話し合いの場に出たのは初めてでとても面白かったというのが、彼女の感想でした。
次回も友達を誘って来てくれるそうです。

リンカーンクラブとしては、政治を政治家任せにして、批判や要請を出すだけではなく、一人でも多くの人が、政治への関心を高め、いま何が進んでいるのかについての知見を広げていくためにも、今回のような「政治を話し合う場」が増えていくことが、すべての出発点だと思っています。
小さな活動ですが、こうした動きが全国に広がっていくことを目指したいと思います。

次回は8月20日の午後2時から、「自民党改憲論」をテーマに開催する予定です。
詳しくはまたリンカーンクラブのホームページでご案内します。
リンカーンクラブは会員募集中です。
ホームページに案内を書いていますので、ご入会いただけるとうれしいです。


20160724


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■節子への挽歌3245:「生きること」を考えるサロン

節子
今朝のNHKの「こころの時代」は、ホスピス研究会OKAZAKI代表の金田亜可根さんが「“普通”の今を生きる」と題して語ってくれていました。
目が覚めるのが遅かったので、途中からしか見られませんでしたが、心に響く言葉が山のようにありました。
そして、私自身が問い質されているような気がしました。
果たして私は誠実に節子に向き合っていたのだろうか。
その後の生き方は誠実だったのだろうか。
この問いは、節子を見送った後、繰り返し自問したことですが、いつも答は出てきません。

「当たり前の日常から、いのちを考える必要がある」と金田さんは言います。
その言葉にドキッとしました。
もしかしたら、私は「いのち」について、考えることを放棄しているのではないか。
「いのち」と向き合うことを逃げているのではないか。
さらに言えば、「生きるための感情」さえ、ふたを閉めているのではないか。

金田さんは、生後間もない長男を突然失った孤独やなすすべのないままに病院で亡くなった友人のことを語りました。
それはいまでも金田さんの生きる姿勢につながっている。
私には、その真摯さが欠けているような気がしました。

なにか朝から思い荷物を背負わされた気がします。
そして、ふと思いました。
「生きること」を考えるサロンを湯島でやってみたらどうか、と。
金田さんは、大学で30回の連続講義を行っています。
私も湯島で、そんなことをやりたい気がしました。
できるだけ人が集まらない仕組みをつくって。

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2016/07/23

■節子への挽歌3244:節子、自慢話を聞いてくれますか

節子
人は時に、自慢をしたくなることがあるものです。
しかし、自慢をすることは難しいことですし、誰にでも自慢できるわけでもありません。
でも、時に自慢をしたくなる。
節子がいなくなってから、私ができなくなったことの一つは、「自慢」かもしれません。

誰かにほめられることがあります。
たとえそれが過大評価であっても、うれしいものです。
そして元気が出てきます。
めげている時の一番の薬は「ほめられること」かもしれません。
私でも時にほめられることがあります。
そんな時、少し誇らしくなることもあります。
そして、誰かに知ってもらって、その嬉しさを分かち合いたいと思うこともあります。
でも誰に言えばいいでしょうか。
それを「自分のこと」として、聞いてくれるのは、伴侶だけではないかと思います。
節子がいなくなってから、自慢する相手がいなくなってしまいました。
それがちょっとさびしいです。

自慢といってもたいした話ではないのですが、例えば、一昨日、こんなメールが届きました。
気分が少し萎えていることもあって、このメールには元気が出ました。
節子はいないのですが、挽歌で節子に聴いてもらうことにしました。

佐藤さんのお力、つながりはすごいと思います。 みんなをつなげて、一人ではできないことができていく力になっていると思います。 生きる元気にもつながります。 佐藤さんを尊敬し、いいなあと思う人は大勢いると思います。

佐藤さんの記事を見てはいつも考えます。
自分のしていることを。
むなしいとも思います。
でも、いいのだとも思います。

人間の持つ精神力のすごさは計り知れないとも思いますが、反面弱いことも弱いですね。
自分で自分を励まし、支え、歩く、活動をしながら、
さみしいと深く思い、だから楽しいことをやろうとも思う。

本当に優しいということは、本当に強いのだと言います。
佐藤さんは優しいです。

息長く、無理しないでご活躍、お願いします。
健康に気を付けてください。
応援しています!

節子
どうですか。
みんなにほめられて生きているのです。
そちらに行くのは、もう少し後になるかもしれませんね。

久しぶりに自慢してしまいました。
やはりいささか恥ずかしいものです。

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■稀勢の里を応援しています

稀勢の里は、とても人気のある力士です。
しかしどうも私は、不得手です。
いつも難しい顔をしているからです。
もっと力を抜いて、素直に生きようよと声をかけたくなります。
私が好きな力士ではありませんでした。

しかし先場所からなぜかずっと応援しています。
横綱がかかっているからです。
久しく日本人の横綱が出ていないのが、なぜか気になっています。

私は、国家というものに縛られたくないと思っています。
日本人ですが、日本人を指揮したことはありません。
国籍など関係なく、世界中の人たちが、みんな仲良くやればいいと思っています。
国家という境界線は、そのためには制約になることもあります。
日本人を意識することは、まなすこそあれ、プラスではないと思っています。
オリンピックでも、国家単位でメダルの数が競われますが、あれには違和感があります。
私自身は、自分はかなりコスモポリタンだと自覚しています。

しかし、本当は必ずしもそうではないのかもしれません。
相撲の横綱がみんなモンゴルの人というのが、本当はなじめていないのです。
なぜ日本人はいないのか。
日本人に横綱になってほしい。
どこかでそう思っているのです。
だからこの2場所、好きでもない稀勢の里を応援しているのです。
そう考えなければ理由がつきません。
ただし、この2場所の稀勢の里の表情は、以前とは変わってきています。
私好みの表情を見せることが多くなりました。

昨日、その稀勢の里が日馬富士に負けました。
稀勢の里は急ぎすぎました。
もう少しじっくり対応したら、勝機はありました。
その取り組みを見てから、どうも落ち着きません。
稀勢の里の不安感が、私にまで乗り移ってきたような気さえします。
私もやはりナショナリストなのでしょうか。
自分の意外な一面を実感しています。

さてまもなく今日の稀勢の里と白鵬の取り組みです。
私は、白鵬が昔から好きです。
しかし今回は、稀勢の里を応援します。
日本人の横綱が生まれてほしいからです。

稀勢の里がもし今日負けたら、今日もまた何もできずに、無駄に過ごしてしまうことになりそうです。
さてどうなりますか。

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■データが消えたという話へのコメント

フェイスブックに書いたら、たくさんの反応があったので、それが面白くて、その一部を含めて、ここでも紹介しておくことにしました。

フェイスブックに書いたのは、こんな記事です。

昨夜、思ってもいなかったことが起こりました。 パソコンの電子メールの受発信記録がすべて消えてしまったのです。 不要なものはかなりこまめに削除していたのですが、この数年の何千というメール記録がなくなってしまったわけです。 いろいろと試みましたが、回復できませんでした。 一瞬にして記録が消える。 実にすばらしい経験です。 いろいろと考えさせられました。 実に脆い仕組みに支えられて生きていることにも気づかされました。 というわけで、メールを送って下さっている方にはご迷惑をおかけするかもしれませんが、お許しください。 できれば返信が必要な方で返信が届いていない方は、改めてメールください。

それに対する反応は、データ回復の対応策に関するものが多いのですが、それとは全く別のコメントがありました。
ひとつはmadoka satoさん(女性)のコメントです。
「やっぱり佐藤さんは素晴らしい」とほめてくださったと、次のようなコメントをして、生地をシェアしてくれたのです。

朝から涙が出たのはなぜかな?と思ってた。 大変!で終わりそうなこと、日常のことにも意味がある。 そんな目線を素敵だなと思います。

そしてこんなコメントもつけてくれました。

目に見えることや存在することは永遠がありません。 私たちは一瞬を生きていてそれが繋がっているのだなと思います。 無くなる見えなくなるのにあるもの、それもまたあるのだなと。

もうひとりは魔法使いの内藤さん(女性)です。

宇宙の友人から聞いたことありますが、電子機器が壊れたり使えなくなったりするのは、自分がバージョンアップして波動が変わった証拠らしいですよ。私もシェアさせてもらいます(笑)

男性たちは、みんなデータ回復や今後の対応に関してアドバイスしてくれました。
ところが、この2人の女性は全く別の発想です。
女性たちから教えられることはたくさんあります。

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■節子への挽歌3243:過去の喪失

節子
昨夜、思ってもいなかったことが起こりました。
パソコンの電子メールの受発信記録がすべて消えてしまったのです。
不要なものはかなりこまめに削除していたのですが、この数年の何千というメール記録がなくなってしまったわけです。
いろいろと試みましたが、回復できませんでした。

一瞬にして記録が消える。
考えようによっては、実にすばらしい経験です。
自らの生き方を問い直す機会を与えられた気もします。
いろいろと考えさせられました。
実にもろい仕組みに支えられて、自分が生きていることにも気づかされました。

過去の記録(記憶)が消える。
節子が逝ってしまった後、そういう感覚に襲われたことがあります。
いろんな思い出が消えていくという感覚です。
そして、いま生きている足元が消えていく感覚です。
それに負けて後追いする人がいるのかもしれません。
過去のない現在や未来は、ありえないからです。

メールの場合、消えたのは「過去」ではなくて、「過去の記録」です。
実体が消えたわけではありません。
過去のメールでのやり取りという事実は、消えるはずもありません。
だからこそ、悩ましいのですが、消えたものにはさほどの価値はないとも言えます。
そこを勘違いしてはいけません。

喪失体験の場合、消えたのは今ここにあるはずの「実体」です。
過去の記憶などではないのですが、あるはずの実体がないことで、実体の記憶にすがりたくなる。
しかし、その実体は、ふたたび現出することはありません。
となると、むしろ記憶を消したくなる。
記憶が、喪失の哀しさを強めるからです。
そして、時に人は再婚する。

私には、後追いも再婚もあり得ない選択でしたが、それなりに足元を失い、記憶を消したいと思ったことがないわけではありません。

データ消失を体験して、いまはどこかにさっぱりした気持ちさえあります。
たぶんこれからいろいろと不都合を体験することになるでしょうが。
それと、決して消えない記憶や記録があるのだという気も、改めてしています。

今日も良い一日になるでしょう。

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■8月の「みんカフェ湯島」のご案内

湯島での「みんなのゆる~いカフェサロン」、略して「みんカフェ湯島」は、7月はお休みさせてもらいますが、次回は下記の通り、8月7日(日曜日)に開催します。
もしお時間があれば、気軽に参加ください。
メニューは珈琲と紅茶とジュースだけですが、話のメニューは参加者次第です。
話したい人は話せる場になると思いますし、話したくない人には話さないでも大丈夫の場になると思います。
突然やって来てくださるので大丈夫です。
途中での出入りももちろん自由です。
お会いできるのを楽しみにしています。

○日時:2016年8月7日(日曜日)午後2~4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cccentermap.pdf
○会費:500円(気が向いたら)

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2016/07/22

■戦争と経済と格差はつながっています

アメリカの共和党は、大統領選挙の候補にトランプさんを指名しました。
数か月前にはだれも予想していなかったことです。
日本ではいまもって、とんでもない人が候補になったという論調で報道されています。
もちろん私もそう思っていましたし、いまもそう思っています。
だが果たしてそうなのか。

オバマさんが大統領になった時に、私は感動しました。
しかし、その後のオバマ大統領の言動には違和感が高まってきました。
ノーベル平和賞を受賞しましたが、9.11後のブッシュ大統領と、どこが違うのだろうかと思うようになってきました。

オバマ大統領になってからアメリカの武器の輸出額は激増したといわれています。
青井未帆さんの岩波新書の「憲法と政治」によれば、アメリカの報道番組「デモクラシー・ナウー!」は、オバマ大統領が最初の5年間で認可したアメリカの武器輸出額が1690億ドル以上であって、ブッシュ政権の8年間の総額である300億ドルも上回っていること、その6割は中東に輸出され、最大の輸入国はサウジアラビアであることなどを、国際政策研究所の武器取引専門家の話として紹介しているそうです。
それはたぶん、国内問題にもつながっているでしょう。
いまのアメリカ社会がいい方向に向かっているとは、とても思えません。

私ですらそう感ずるのですから、アメリカの人たちはもっと強く感じているでしょう。
戦争と経済と格差はつながっています。
それがアメリカでは明らかに見えるようになっているのかもしれません。
だからのトランプ人気だとしたら、トランプさんは決して「とんでもない存在」ではないのかもしれません。
どんなにおかしく見えることも、必ず理由はあるものです。
私も、どうもマスコミ報道に洗脳されているのかもしれません。

日本ではまだ、アメリカほどには、戦争と経済と格差の繋がりが見えてきていないのかもしれません。
いまだもってトリクルダウンの詐欺話が通用していますし、経済が戦争に依存している実態も見えにくくなっています。
「とんでもない人」が登場する余地はまだ低いのかもしれません。

都知事選には21人が立候補していますが、3人以外は基本的には誰も当選するとは思っていないでしょう。
ですからその主張にも耳を傾ける人は少ないでしょう。
マスコミも相手にしていません。
しかし、もしかしたら、その18人の中にこそ、都知事にふさわしい人がいるのかもしれません。
少なくともトップ3人にはふさわしい人はいないように、私には思います。
しっかりした眼を持つことは、至難です。
でも持つように心がけたいと思います。

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■節子への挽歌3242:「おさむちゃん」と「おさむくん」

節子
節子は、私の同級生時代の同級生を何人か知っています。
節子も知っている、2人の同級生と、偶然にも最近やりとりがありました。

一人は、埼玉県の小川町で有機農業に取り組んでいる友人です。
アナウンサーだったのですが、なぜか突然、有機農業に取り組んでいた人に嫁いだのです。
彼女が農業をやるとは思ってもいませんでした。
たまたま先週、小川町近くの寄居に行っていたので、電話をしましたが、電話がつながりませんでした。
寄居から帰ってきた翌日、彼女から電話が帰ってきました。
「おさむちゃん、気が付かなくてごめん」と言ってきました。
彼女は、私のことを「おさむちゃん」と呼ぶのです。
私が電話をかけた時には、寄居の近くにいたそうです。

その翌日、また小学生の同級生からメールが来ました。
滅多にしかメールをくれない友人です。
彼女は、私を「おさむくん」と呼びます。
「おさむちゃん」と「おさむくん」。
どこで違いができたのでしょうか。
しかし、この歳にして、「おさむちゃん」とか「おさむくん」と呼ばれるのも、奇妙な気分です。
ちなみに男の同級生は、「おさむ」と呼び捨てです。
「佐藤」という姓は多くて、同級生の中に4人もいたので、名前で呼ばれることになったのです。

さてメールをくれた同級生ですが、猫のテンチャンと一緒に暮らしていましたが、そのテンチャンが夜中に鳴き出すようになったのだそうです。
それで近くから苦情が出てきて、今月はじめに転居しました。
にもかかわらず、転居して2週間して、愛猫はなくなってしまいました。
19歳の大往生です。
彼女によれば、「私の人生最後の、神様からの贈り物のニャンコ」だったそうです。

新しい家からの風景は広々として欅などの巨木が立ち並んでいるのが見えて、東京都とはとても思えないそうです。
彼女は、「テンチャンがここを選らんでくれたのだと感じていますが、私には贅沢なほどで、すっかり気に入っています」と書いています。

彼らと出会ってから60年。
考えてみれば、長い長い時間でしたが、何も変わっていないのが不思議です。

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■私たちは人間と扱われていない!

関東にいるとなかなかわかりませんが、沖縄はいまいささかきな臭くなってきているようです。

昨日、知人からメールが届きました。
今月初め、沖縄の辺野古、高江へ行って座ってきたそうです。
メールにはこんなことが書かれていました。

参院選後、高江のメインゲートが破られ、オスプレの基地を強硬につくるようです。 新聞の報道の違い、 日本政府は沖縄軍事基地化を狙っている、 国民の税金がアメリカ軍にながれ、軍人たちが優遇され、 ともかくおかしい、 日本政府は日本の国民を考えていない、 そんなことが分かりました。 ともかく軍隊はいらない、戦いはいらない、と切に思いました。

アメリカの軍事基地では反対運動の人間の動きをビデオで撮っていました。
少し怖いと思いました。
高江は8年、辺野古は18年戦っている人たちがいる、すごいことです。

彼女は、演劇に関わっている人ですが、こう書いています。

特に俳優は、仕事柄、世界や人間のあり様を考えます。 おそらく芸術家というものはそういう人種だと思います。 真っ先にやられるのは演劇人だと(小劇場運動の推進者の)鈴木忠志さんは言ってます。 まあ、そうですね。 精神と芝居活動はつながっていて、人を大勢一度に動かすことができますから。 政府は怖いから真っ先に捕らえますね。 それに耐えられるだけの覚悟をいつもしなければと思いますが、 弱い自分が見えてしまいます。 アメリカの軍事基地では反対運動の人間の動きをビデオで撮っていました。 少し怖いと思いました。 高江は8年、辺野古は18年戦っている人たちがいる、すごいことです。

そのメールが届いた直後、菅官房長官は記者会見で、米軍普天間飛行場の辺野古移設を巡り、沖縄県を相手に新たな違法確認訴訟を起こすと発表しました。
辺野古の埋め立て承認を取り消した翁長知事が、撤回を求める政府の是正指示に従わないのは違法だとの確認を求める内容だそうです。

そして、琉球新報電子版によれば、沖縄防衛局は今朝午前6時ごろ、新たなヘリパッドの建設工事に着手したようです。
昨日から噂は流れていて、すでに数十名の市民たちが集まっていたようですが、その隙を抜いて機材が積み下ろされたと報じています。

テレビ取材に応じた現地の女性は、「私たちは人間と扱われていない」と怒りと悲しみを表明していましたが、私は被害者なのか加害者なのか、悩みます。
沖縄で行われていることは、日本の明日の姿を象徴しているように思います。

今度の日曜日、湯島で「民主主義」をテーマにしたサロンをスタートさせます。
私が考える民主主義は、「個人の尊厳を尊重しあう」、つまり「すべての人を人間として扱う」という考え方です。
24日を皮切りに、毎月開催していく予定です。
案内は、私のホームページやリンカーンクラブのホームページに掲載します。
よかったらご参加ください。
明後日(7月24日)もまだ参加可能ですので、よろしくお願いいたします。

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2016/07/21

■節子への挽歌3241:カッパ顔の孫

節子
今日は孫が来ていました。
節子が会うことがなかった孫です。
一時は諦めていましたが、今年、娘が出産したのです。
もうひ孫がいてもおかしくない歳ですが、私には初孫です。
節子がいたらどんなに喜んだかと思うと、孫の顔を見るたびにむしろ心が痛みます。

私の友人たちは、ともかく孫はかわいいと言いますが、まだそこまではいきません。
しかし、会うたびに、表情が豊かになってきて、かわいさが少しずつですがわかるようになってきました。
最近は視線が合うこともあります。

娘が、私が孫を抱いている写真を額に入れて持ってきてくれましたが、それよりも孫だけの写真の方が私は気にいっています。
その中に1枚、見ているだけで幸せになるような写真があります。
娘に言わせると「カッパ顔」の写真です。
「かわいい」というよりも「おかしさ」が勝っている写真です。
掲載しようかどうか迷いましたが、やめました。
そもそも孫の写真をアップする権利は私にはないでしょうから。
ネットでは一度アップするともう消えませんし。

しかし、その写真は実に楽しい写真です。
娘たち夫婦は気にいっているようです。
たしかに、その写真を見ていると、何か心やすまるのです。

しかし、このカッパ顔の孫は、ちゃんと女の子になるのでしょうか。
いまのところは、その兆しはありません。
でもまあ、会うたびに人間らしくなってきます。
孫のかわいさが、わかってくるのでしょう。

今日はちょっと脱力気味の1日で、もしかしたら風邪かもしれないと思っていたのですが、何とか無事乗り切れました。
明日は良い日になるでしょう。
お天道様も、そんなに性格は悪くないでしょうから。

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■節子への挽歌3240:軽い不眠症?

節子
いまさら気づくのも遅いのですが、もしかしたら私は軽い不眠症かもしれません。
節子がいなくなってから、朝まで熟睡した記憶がありません。
夜中に必ず目が覚めるのです。
速い時は就寝後1時間後、遅ければ4時間後です。
また眠れることも多いのですが、眠れないこともあります。
まったく眠れない時には、枕元に置いてある本を読みますが、多くの場合はテレビのスイッチを入れてしまいます。
だからと言って観るわけではありません。
音が聞こえるだけで安堵します。
そのまま寝てしまうこともあります。
テレビをつけるのはやめようと思うのですが、その意志が貫かれることは少ないのです。
ちなみに、寝室のテレビは基本的に観ることはないのですが、なぜか節子がいなくなった後、購入してしまいました。

不眠症といえるかどうかはわかりませんが、朝、どうもすっきりと目覚めないのです。
最近、午前中、頭がうまく作動していないことに気づくことがあります。
どちらかといえば、私は朝型なのですが、10時頃から無性に眠くなるのです。
この数日、電車で眠ってしまい、湯島で降りずに乗り過ごしが起こっています。
以前はこんなことはありませんでした。

もっともこれは「老化」のせいかもしれません。
たしかにこの頃、疲労回復に時間がかかります。
特に健康維持や体力保持に心がけてはいません。
むしろ人は自然に衰えていくのがいいとさえ思っています。

今朝も早く目覚めましたが、気が乗らずに、午前中、ダラダラ過ごしてしまいました。
これではいけないなと思って、メールを開きました。
昨夜、短視眼的なNPO関係者に少し怒りを込めて投稿したサロンの案内に、しばらくお会いしていないアーティストの方からメールが届いていました。

仕事のため、サロンには行けませんが、
自分なりに友人たちとつながって平和をねがい、できることやろうと思います。

こういうメールが時々来るので、活動が持続できています。
節子はなにも言ってくれなくなりましたが、こういう人たちに支えられているわけです。
フェイスブックにも、同じようなメッセージが別の人から届いていました。
不眠症などと言い訳をしていてはいけません。
やるべきことをやっていないのが原因かもしれません。
そう思って、やるべきことを思い出したら、今度は胃が痛くなってきました。

節子
生きるということは、実に苦労が多いです。
そろそろ私も休みたいです。
あなたは休んでいますか?

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2016/07/20

■節子への挽歌3239:節子のおかげで何とか自分の小さな世界を維持できたような気がします

節子
昨日は引きこもり家族連合会の方たちと半日、ビシッと話し合いをしました。
この分野にもまた、現代社会の実相が象徴されています。
社会の現場に触れるほどに、疲弊感が強まる時代になってしまっているのが残念です。

時代はよくなっているのか、と問われると、いまの私は「なっている」とはとても答える気にはなれません。
昨日、芥川賞が発表されました。
「コンビニ人間」というタイトルの作品で、組織の部品になることで居場所を実感できるという主人公の話のようです。
実に皮肉のきいた作品のようですが、こういう話がいかにも納得できてしまう社会になってしまってきたようです。
つまり、主体性のある人こそが、社会に不適合を起こす時代といってもいいでしょう。
私も、主体性を大事に生きてきたつもりですが、社会に自分を合わせるのはいまなお不得手です。
節子がいればこそ、何とか自分の小さな世界を維持できたような気がします。
一人だったら、とても今のような生き方を貫くことはできなかったでしょう。

それにしても、相変わらずいろんな人が相談に来ます。
たぶんいまの社会が、そうさせているのでしょう。
どこかおかしくて、もがいている人が増えてきているのかもしれません。
そういう人たちが集まって、新しいコミュニティを創りだせばいいのでしょうが、もしかしたらもうコミュニティを生み出す拠りどころさえ、私たちは失っているのかもしれません。
昨日は、山岸会の話も出ました。
いまもなお各地で展開されているそうですが、当初の主旨とは違い、いまや集金マシンになっているという話もありました。
真偽のほどはわかりませんが、私たちはどうも金銭の餌食にされてしまったのかもしれません。
そういう生き方から私が抜け出せたのは、節子のおかげです。
たぶん私一人では、貫けませんでした。
いまになって、つくづく節子への感謝の念が湧いてきます。

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2016/07/19

■自民党の憲法改正草案を読もう

昨日、フェイスブックに書いた記事を転載します。

今朝の朝日新聞の投書欄に埼玉県の70代の女性からの「自民党の憲法改正草案を読もう」という投書が掲載されていました。
昨日も女性の参加者が多い、ある集まりの場で、雑談の合間に場違いの政治の話になってしまい、ついつい私も過剰に発言してしまったのですが、安倍政権の良し悪しはともかく、日本人であれば、自分のことだけを考えているのではなく、せめて憲法を読み、政権が変えようとしている改正案を読んでほしいと発言してしまいました。
あまりに場違いだったので、場がしらけてしまいましたが、いまの日本には自分のことしか考えていない「小さな正義の善人」が多すぎます。
ちょっと言い過ぎたなと反省していたのですが、この投書を読んで少しホッとしました。

昨年、この改正案を読むサロンを湯島で開催しましたが、また開くことにしました。
一緒に読みたいという方がいたら、ぜひご連絡ください。

自民党改憲案に関する私の意見を書いたものが下記にあります。
3年前に書いたもので、いまは少し意見が変わっているものもありますが、お時間が許せば、お読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kenpo13.htm

ちなみに、このブログですでにご案内の通り、今度の日曜日の7月24日の午後、湯島で民主主義を考えるサロンを開催します。
よかったらご参加ください。

Photo


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■非情報化社会

最近テレビを見ていると、毎日同じような事件の報道が多くて、まるで時間が止まっているような気がすることもあります。
それが意味することを考えると、いささかゆうつになります。
私たちの世界は、実際に起こっていることで成り立っているわけではありません。
それぞれの人が、自分が知っていることで構成されています。
そして、その「知っていること」の多くが、その人が接している情報源によって決まってきます。
よく「朝日新聞」を読んでいる人と「読売新聞」を読んでいる人とは世界観が違ってくると言われますが、そもそも情報源を新聞に依存している人は、その時点で同じ穴のムジナでしかありません。
穴を出なければいけません。
かといって、ネット世界が情報源として広いかといえば、そんなことはありません。
たしかにネットの世界は広いですが、実際に個人が触れられるのは、極めて限られたその一部でしかありません。
私の体験では、ネット依存の人の情報世界は極めて狭いような気がします。
みんな底なしの大きな海におぼれてしまっている気がします。
ネットに依存している人で、自分を生きていると感じた人に会ったことはありません。

30年前、世間で「情報化社会論」が盛んだったころ、私は「非情報化社会論」を書きました。
途中までしか書けていないのですが、その時に考えていたことがその通りに進んできているように思います。
誰かがつくった二次情報の世界でみんな生きるようになってしまった。
私たちはいま、虚構の世界に生きているのかもしれません。
いまの経済は、虚構の経済学だという人もいます。
虚構であればこそ、学問になり得るのかもしれません。

虚構の世界に住んでいると、人は与えられた自分を生きるようになります。
虚構の世界のアフォーダビリティを活かして、さらなる虚構を創りだしていく。
それは、生命とは無縁の世界に通じていきます。
そして、人は不老不死の存在になれるのかもしれません。

私たちは3500年ぶりに、大きな時代の変わり目を生きているのかもしれません。

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■節子への挽歌3238:幸せにすること・幸せになること

節子
今日は明け方、とても夢を見ました。
内容は思い出せませんが、最後のシーンは覚えています。
ある人を幸せにしたという夢です。
それも1人ではなく、別々の2人です。
しかもなんとなく感じたのは、その2人は別々ではなく、仏教でいう「不二」の存在、もっと言えば、「一即多」あるいは「ホロニック」な存在を感ずるものでした。
そこに、私自身もれ場、節子もいる。
目が覚めて気づきました。
宮沢賢治は幸せだったことを。
少し説明が必要かもしれませんが、これまでこの挽歌を読んでくださった方ならわかってもらえると思います。

そして私自身の幸せにも気づきました。
さらに、私のこれまでの生き方が、すべて理解できたような気がしました。
幸せにすることが幸せになること。
そして世界はすべてつながっていること。
菩提樹の下で悟りを得たブッダのような気分です。
久しぶりにさわやかに目が覚めました。

いろいろな「難事」や「課題」が持ち込まれ、降ってくるのは、すべて意味がある。
正面から受け止めないといけません。
不幸を嘆いては行けません。
自らが不幸なのは、誰かを幸せにしていないからなのです。

気持のいい朝です。
改めて生きる意味がわかった気がします。

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2016/07/18

■節子への挽歌「3237:「がんは死ぬ病気ではない」

節子
都知事選が始まりました。
ご自分のがんを克服した鳥越さんが、野党の統一候補として立候補しました。
その演説を聞いていたら、ご自分のがん克服の話を踏まえて、「がんは死ぬ病気ではない」と話していました。
この言葉にとても腹が立ちました。
がんで死んでいった人たちは、ではどうすればいいのか。

たぶん私の過剰反応でしょう。
がんで亡くなる人を減らすために尽力するというのが、鳥越さんの真意でしょう。
しかし、やはり受け手の気持にも思いをいたしてほしいと思いました。
この人は強い人なのです。
がんに対する勝者の言葉です。
負けた者たちには、とても受け入れられない言葉なのです。

こういう体験は、これまでもよくしてきました。
私の場合は、伴侶をがんで亡くした体験が傷みとして心身に刻まれています。
ですから、それに関した言動には、異常と思えるほど反応してしまいます。
その一方で、それ以外の「痛み」に対しては、私はたぶん誰かを傷つける言動をしているのでしょう。
他者の痛みなど、わかるはずはないからです。
ましてや「寄り添うこと」などできるはずもない。
気をつけなければいけません。

鳥越さんは、もしかしたら、この「がん発言」で落選するかもしれないと思います。
いや、落選してほしいと思いました。
人の痛みに無神経な人には、リーダーにはなってほしくはないからです。

でももしそうであれば、3人の有力候補のなかには、リーダーになってほしい人はいないことに気づきました。
困ったものです。
節子なら、誰を入れるでしょうか。

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■節子への挽歌3236:不思議な合宿

節子
一昨日から昨日にかけて、埼玉県の寄居で不思議な合宿をしていました。
昔ある組織の研修施設だったところですが、しばらく使っていなかったところに、友人が住みだして、そこでストーリーテリング・ジャンボリーという、不思議な集まりをやったのです。
主催はストーリーテリング協会です。
その協会の代表は私なので、実は私は主催者の一人なのですが、実際に何から何までプロデュースし運営したのは、協会仲間の吉本さんと内藤さんです。
節子は知らない人たちですが、実に不思議な人たちです。

しかも集まった人たちが、さらに不思議な人たちです。
内藤さんは、実はヒーラーなのです。
それも実に不思議なヒーラーです。
彼女が声をかけて集まった人が半分でした。
ともかくいろんな人が集まりました。
で、2日間、不思議なワークショップをやったり、講談を聴いたり、話し合ったり、まあいろいろでした。
建物は50人ほど宿泊できる大きな施設ですが、何しろ長年使っていないのと広すぎるため、掃除はしようがありません。
まあ不思議な合宿を体験しました。

6月には老舗の奈良ホテルで合宿でしたが、私にはどうも奈良ホテルよりも、今回のような施設のほうが向いているようです。
食事は、吉本さんと内藤さんの手づくりで、20人分をそれぞれ一人で調理してくれました。
本来は私もスタッフなので手伝わなければいけないのですが、結局、まったくの役立たずで終わりました。

でもまあみんなとても喜んでくれました。
近くの人もいましたが、横浜からわざわざ来てくださった方もいました。

私は、最近いろいろとあまり気分のよくない話が集まって来ていて、いささか心身共に疲れているのですが、そうした俗事から解放された2日間を過ごしました。
ジャンボリーのプログラムは、私には不得手なものが多かったので、別の意味で疲れたのですが、なにか心の安らぎは回復しました。
あったかいものも、たくさんもらいました。

こういう場に来るといつも感ずることがあります。
なんでこんなにいい人ばかりなのに、生きづらい社会になってしまったんだろうか。
今回の2日間でもらった課題は、そのことです。
「生きづらい社会をつくるのはいい人たち」という仮説を立ててみましたが、もしそれが正しければ、こんなに悲しいことはありません。

寄居で初めてお会いした方たちからメールが届きました。
私の世界には、あまりいなかった人たちかもしれません。
また世界が少し広がりました。
私よりも、節子が喜んだかもしれません。

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2016/07/16

■節子への挽歌3235:寄居でジャンボリーです。

節子
今日は最初は埼玉県の寄居でストーリーテリング・ジャンボリーというのがあります。
20人近い人が参加するそうですが、どんなジャンボリーなのかあまり理解できていません。
家を出る直前に案内が届いているのに気づき、慌てて読みました。
スリッパ持参で、長袖がいいと書いてありました。
あわててスリッパを探したら、運良く昔ホテルからもらってきたスリッパがありました。
長袖は荷物になるのでやめました。
服装も汚れてもいいようなもの、靴もそれに合わせて、と書かれていましたが、いまさら替えられないので、いつもの服装にしました。
最近、衣服を買っていないので,選択肢が少ないのです。
でもまあどうにかなるでしょう。

ちなみに,プログラムをみたら、最初にストーリーテリング的な自己紹介セッションがあるようです。
実は私はこれが非常に苦手なのです。
困ったものです。

でも出かけなければいけない時間になったので、でることにしました。
いま電車の中ですが,どんな一日になるでしょうか。
いささか不安ですね。
でもまたきっと嬉しい出会いがあるでしょう。

ちなみに,主催はストーリーテリング協会。
実は私は,その協会の代表で,このジャンボリーをやろうと言い出した一人なのです。
困ったものです。

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2016/07/15

■節子への挽歌3234:さらにまた5つ組織をつくろう!


節子
相変わらず疲労感が残り、やっとこさ生きていますが、何やらまた周りが動き出しています。
今日は、発達障がいの若者が2人、湯島に来ました。
発達障害は、「発達凸凹」という表現もあるのだそうですが、私もその方がぴったり刷るのですが、まあとりあえず発達障害と書いておきます。
名前は長澤さんと神崎さん。
長澤さんは湯島サロンに時々参加します。
神崎さんは、先日Necco Cafe出会いました。
2人は、「はったつ組合」を創りたいと相談に来たのです。
発達障害者たちの働く場を広げていきたいというのです。

私のところに相談に来るのは、かなりの勇気が必要だったでしょう。
来る前に近くのカフェで、2時間以上、ふたりで作戦を話し合ったようです。
2人ともいささか緊張気味にやってきました。
湯島に緊張は不似合いなのですが。
それに私には、作戦はたぶん全く通用しないでしょう。

2時間話し合って、2人が考えていることがほぼわかりました。
中途半端にはコミットできませんが、しっかりしたプロジェクトマネージャーがいれば、大きなプロジェクトにもつながる可能性はある構想です。
彼らは、そういう人を探しているのです。
しかし、考えていても仕方がない、夢は実現しなければいけない、ともかく動き出そうと話しました。
そう言った以上、私にも責任は生まれます。
もうこれ以上、組織の立ち上げには巻き込まれたくないのですが、口に出した以上は引くに引けません。
困ったものです。

私は、もうあまり現世にはいないので、仲間にはなれない。
最低でももう一人、仲間を見つけるようにと伝え、名前はとりあえず「はったつ凸凹ギルド設立準備会」にしました。
そしてできるだけ早く、「リナックスを体験しませんか」講座をやろうということになりました。
失敗してもいいから、ともかく自分で仕事を創りだすことを体験するのが一番の早道です。

ところが帰宅してパソコンを開いたら、この件で相談に乗ってもらおうと思っていた知人から、偶然にメールが届いていました。
お天道様は、やはりしっかりと見ています。

さてもうひとつ動きがあります。
明日から寄居で合宿なのですが、これに関してどうもまた何かに引き込まれそうな気がするのです。
寄居にいる魔法使いの友人の夢を知ってしまったのです。
夢は実現しなければいけない。
それで荷担することにしました。
「みんなの家」プロジェクトです。
これは資金が当面1000万円ほど必要です。
節子が残していたお金があれば、私だけで対応できましたが、いまはすべてなくなっていますので、1口50万円で20人賛同者を集めなければなりません。
さて難題ですが、難題ほど面白い。

夜、まったく別の人からもう一つ相談がやってきました。
いや、考えようによっては2つでしょうか。
こうなったらもうすべて受け入れることにしました。
たぶん完全に時間破産するでしょう。

しかしそれもまたよし。
現世にいる間に、やっておけということなのでしょう。
人は限度を超えると、強くなるものです。
やけくそという感じがしないでもありませんが。
でもどうしてみんな、こんなにやるべき課題があるのにやらないのでしょうか。
不思議でなりません。


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■節子への挽歌3233:昔を思い出させてくれる友人

節子
荻阪さんが本を書いたと言って、持ってきてくれました。
新しい組織開発論をベースに、物語り仕立てて書いた新著です。
そこに込めて思いを、熱く語ってくれました。
その話の中に、なんと節子のことが出てきました。

荻阪さんと出会ったのは、もう20年ほど前でしょうか。
彼は、プロセスコンサルティングの仕事に取り組んでいました。
その時に、何度か湯島に来たのです。
そして私と議論をした時に、横に節子がいたのを覚えていてくれています。
私のドラッカー批判(顧客の創造が経営の目的ではない!)やCI会議体を立ち上げた時の、私の思いを、私以上に覚えてくれているのです。
そして、そういう議論をしていた時に、横で節子が聞いていたというのです。
その時の節子の反応まで話してくれました。

荻阪さんに限りませんが、久しぶりにやってきた人が、私が昔何気なく語ったことを覚えていてくれています。
その時の表情や話し方、さらには状況まで話してくれる人もいます。
その言葉を覚えていてくださるということは、もしかしたらその人の生き方にささやかながらも役立ったのかもしれません。
うれしいことです。
そしてそんな時に、情景の中に節子が出てくることは、さらにうれしいことです。
これも「湯島」という空間のおかげだろうと思います。

荻阪さんは、自らをチェンジ・アーティストと称していますが、いまの日本企業を変えたいと考えています。
そういう長年の活動を、今回、「社員参謀」という本にまとめたのです。
そこに込めた荻阪さんの思いを聞きながら、会社時代に私が取り組んでいた仕事、さらにはそこで挫折して会社を辞めて始めた活動のことを思い出しました。
たぶんあの頃は、私もいまの荻阪さんのように、熱く語っていたのでしょう。

帰り際に玄関で、荻阪さんがまた言いました。
やはり奥さんのことを思い出しますね、と。
湯島は確かに不思議な空間です。

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2016/07/14

■民主主義をテーマにしたリンカーンクラブサロンをスタートします

ご案内の通り、7月9日に、リンカーンクラブ代表の武田さんの新著「子どもたちを戦場に送らない勇気」の出版を記念したミニ講演会(フォーラム)を開催しました。
それを契機に、これまで活動をやめていたリンカーンクラブの会員活動を再開しました。

翌日の参議院選挙で、日本はいよいよ憲法改正が現実の問題になってきました。
自民党の憲法案は、読んでいただくとわかりますが、民主主義の視点からも大きな問題が含まれています。
そうしたなかで、民主主義の視点から現在の日本の政治状況を考え、自分に何ができるか、何をするべきかを考えることが、いまを生きる私たちの重大な課題になってきました。
そこで、リンカーンクラブでは、会員の交流も含めて、毎月、民主主義の視点から、いまの日本の政治状況を考えるとともに、民主主義をテーマにした、カジュアルなサロンを開催することにしました。
その最初のサロンを、下記の通り、7月24日に開催します。
リンカーンクラブ会員だけではなく、広く開かれた場にしていきたいと考えています。
さらには、できれば全国各地に、そうした民主主義を語り合うサロンが広がることを目指しています。

最初のリンカーンクラブサロンは、武田さんの新著「子どもたちを戦場に送らない勇気」を読んでの感想や意見をベースにしたいと思います。
武田さんにも参加してもらいますので、もし異論や疑問があれば、ぶつけてください。
サロンという、とても気楽な場ですので、軽い気持ちでご参加ください。
誰でも歓迎です。
一人ひとりの考えを大事にする民主主義の理念に沿った運営をします。

ちなみに、リンカーンクラブは会員募集中です。
詳しくはホームページをご覧ください。
http://lincolnclub.net/
「子どもたちを戦場に送らない勇気」は以下に私が勝手に紹介しています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#160703

7月24日、湯島でお会いできるのを楽しみにしています。

●日時:2016年7月24日(日曜日) 午後2時~4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●会費:500円
●テーマ:武田文彦著「子どもたちを戦場に送らない勇気」を読んで思ったこと。
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

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■節子への挽歌3232:たかつきメロン

節子
今年も節子の生家の高月から、メロンが届きました。
わが家の畑のメロンは、前途多難な状況ですが、いつものように立派なメロンです。
節子は、高月のメロンが好きでしたが、最後の夏は、そのメロンも一口しか食べられませんでした。
メロンを見るたびに思い出します。
でも、いまはもうたくさん食べられるでしょう。
節子にお供えしました。

私は食にはほとんど関心がありません。
たしかにメロンは美味しいですし、おいしいものを食べることはうれしいことです。
でもどこかで「罪の意識」があるのです。
高価でおいしいメロンひとつよりも、安いメロンをたくさんの人たちと分かち合って食べるほうが私の性に合います。
そのほうがずっとおいしい。
メロンを食べたくても食べられない人に食べてもらう方が、自分が食べるよりもずっと幸せな気がします。
そういう気持ちがどこかにあるので、高価なものを食べる時に、罪の意識を感ずるのです。
いつの頃から、こうなってしまったのか。
会社を辞めてからのような気もしますが、生まれながらのような気もします。
前世の暮らしのせいかもしれません。

メロンの食べごろは収穫時から10日ほどたってからといわれます。
それまで節子に供えられたままでしょう。
今日は、畑から収穫してきた、かたちの悪いきゅうりを生で食べました。
鮮度のいい野菜は、何でもおいしいです。
メロンはなぜ収穫してから10日もたたないと美味しくならないのでしょうか。
たぶん枝から切り離されてもまだ生きているのでしょう。
考えてみると不思議です。

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2016/07/13

■やはり小池都知事でしょうか

都知事選に立候補予定の4人の人の記者会見がありました。
国政の時とは違って、多くの質問が的確なのに感心しましたが、回答する方が正面から答えていないケースもありました。
一番、誠実に受け答えしていたのが、宇都宮さんだった気がします。
好感が持てました。

増田さんは、善良さとやさしさは伝わりましたが、弱さと視野の狭さを感じました。
大都市のリーダにはなれない人だろうと思いました。

鳥越さんは、戦争や原発に関して明確な発言をされましたが、やはりまだ腹が決まっていないばかりか、いささか弁解的でした。
やはり周囲を気にするジャーナリストだと感じました。
私の先入観のためかもしれませんが。
ちなみに、テレビの多くのコメンテーターの認識とは違って、私は都政が国政に無縁であるとは思っていません。
都知事こそが、憲法や原発を課題にするべきだと思っています。
鳥越さんが、そこを語ってくれることを期待しましたが、弁解で終わりました。

小池さんは、相変わらず見事でしたが、戦争も憲法も原発も安倍政権のそれと同じであることを明確にしました。
まあ安倍政権と同じ方向を向いています。
都民のための政治にはならないでしょう。

というわけで、記者会見を聞いた限りでは、私は宇都宮さんに共感しました。
オリンピックに関する姿勢も共感できます。
もしかしたら、宇都宮さんもありうるかとちょっと期待を持ちましたが、まあ無理でしょう。
やはり見通しとしては、小池さんだろうと思いました。
闘い方を知っている。
それに、いまの都民の民度に合っているでしょう。
いまの都民は、沖縄県民ほどの知性や見識は持っていないでしょう。
仮に宇都宮さんが知事になっても、つぶされるだけでしょう。

それと面白かったのは、テレビの女性キャスターたちが、小池さんに明らかに反感を持っているのが伝わってきました。
女性たちの嫉妬心が小池さんを落とすかもしれません。
しかし、私の予想は小池知事の誕生です。
女性の都知事の誕生は悪いことではありません。
残念ながらそれが小池さんという,安倍内閣の仲間だということです。
私には最悪です。

都知事選への関心は、今日で終わりました。
結果がわかりましたので。

〔追記〕
この記事を書いた1時間後に、テレビで宇都宮さんの立候補取りやめが報道されました。
となると状況は変わり、鳥越さんが当選する可能性が高まりました。
もう少し都知事選への関心が持続しそうです。


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■節子への挽歌3231:過去よりも未来のなかで時間を過ごしたい

節子
昨日は久しぶりに大川さんが来ました。
この数年、博士論文に取り組んでいると言うので、その構想について少し話し合いました。
コムケア活動を始めた時に、彼が協力したいとやって来て、その活動を踏まえて本を書きました。
たしか「まえがき」を私が書いたのですが、その本を最近読んだ沖縄の人から講演依頼があり、それが縁になり、昨年、沖縄に何回か行ってきたそうです。
テーマはなんと、「花でまちをいっぱいにしよう」という活動の支援だったそうです。
まさか大川さんが、花でのまちづくりに関わるとは、節子も予想できないでしょう。
私も全く予想できませんでした。
私が関わった青森県の三沢市の例や節子が関わっていた我孫子の例を話しました。

花はともかく、大川さんはたぶん節子が知っていた頃と何一つ変わっていない気がします。
彼もまた、長い時間軸の中で生きている人です。
なにしろ今回、湯島に来たのは、数年前に出したメールへの対応がきっかけでした。
不思議なキャラクターですが、どこか気になる存在です。
感情に起伏がないというよりも、すべてを素直に受け入れるのです。
いまは論文作成のため大学院に在籍しているそうですが、大学には行っていないようです。
ただ黙々と博士論文に取り組んでいるわけです。
余計なお世話ですが、少しだけ軌道修正の働きかけをしました。
このままだと親が心配するでしょう。

コムケア活動に取り組んだおかげで、若い世代と一緒にいろんなことができました。
その若い世代も、いまはもう若くはありません。
みんなどんどん変わっていく。
まあ大川さんは変わりませんが、他の人はみんな変わっていき、コムケアを支えるメンバーは一人を除いてはすべて変わりました。
その一人も、最近は子どものPTA活動で忙しそうです。
私は人の年齢を識別できないタイプですが、それでも生活パターンの変化はわかります。
時間はどんどん過ぎているのです。
ということは、私自身、外部から見れば大きく変わっているのでしょう。
しかし、その自覚がほとんどない。
もちろん自分が高齢者であるということは認識していますが、どうも心身はそれを自覚していないのです。
困ったものですが、大川さんと同じで、これはなおらないでしょう。

大川さんと節子はさほど接点はなかったでしょうが、大川さんと話していると、何やら昔を思い出します。
人には、過去も大切なのかもしれません。
しかし、私は最後まで、過去よりも未来のなかで時間を過ごしたいと思います。

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2016/07/12

■ウォーゲーム「朝鮮戦争」体験

今日は、ウォーゲームの研究者の蔵原さんと軍事問題研究者の桜井さんと3人で、朝鮮戦争を題材にしたウォーゲームをやりました。
私だけが場違いなのですが、事の成り行き上、こういうおかしな組み合わせができてしまったのです。

蔵原さんが北朝鮮軍、私と桜井さんは韓国軍と国連軍でしたが、史実に反して、私たちが敗北してしまいました。
かなり難しいゲームで、正直、疲れ切りました。
慣れている蔵原さんは楽しんでいましたが、国連軍の桜井さんと私は、いささか疲れて、厭戦気分に襲われてしまいました。
戦争は、ゲームでも疲れますので、実際の戦争はやりたくありませんね。

3時間にわたる戦争ゲームで、学んだことは少なくありません。
たとえば戦争は最初の対応で、ある意味決まってしまうということです。
またゲームの進行のなかで、蔵原さんと桜井さんから、朝鮮戦争に日本がどう関わっていたかも、具体的に教えてもらいました。
思ってもいなかった事実も教えてもらいました。
私もそれなりに朝鮮戦争については、書籍などは読んでいるつもりですが、生々しい地図を目にしながらゲームでシミュレーションすると全く違った印象が得られます。
軍事専門家の桜井さんですら、気が付いたことがあると言っていましたから、ゲームの効用は大きいようです。
しかしそれにしても、疲れました。

このウォーゲームから何が得られるのか。
ゲーム終了後、少し話し合いました。
それぞれの戦争観が出てきてしまい、私はどうも浮いてしまっている気がしました。
戦争ゲームよりもテロ対策ゲームがいいのではないかと提案しかけましたが、あんまり強く主張すると、ゲームではない、本当の論戦が起こりそうなので、友情維持のために自らの主張を少しおさえました。
何しろ相手は専門家、それも2人ですから、論争の勝ち目はありません。
ゲームで敗北した上に、何かもう一つの敗北感がありました。

ゲームでの朝鮮戦争終了後、北朝鮮の将軍はどうなったかという議論になりました。
英雄になったか、処刑されたか。
大きな意見は一致しました。
戦争は、いずれにしろ惨めで虚しいです。

ウォーゲームをやる前、沖縄に花を広げるプロジェクトに関わっていたNPO研究者と食事をしていました。
やはり戦争よりも、花でまちを埋め尽くそうというプロジェクトの方が心やすまります。

20160712


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■思想への共感と言動への共感

都知事選の立候補者がにぎわってきました。
しかしその様子を見ていて、とても情けない気分になります。
今ごろでてくるなと言いたくなるのです。
後出しがいいとかいう話がありますが、いかにも姑息な議論です。
そして姑息な議論を語っていた自民党も民進党も惨めな結果になりました。

私は、小池さんのこれまでの政治思想には好感が持てません。
ですから、小池さんが都知事になることにはあまり良い気はしていません。
フェイスブックに、小池さんが都知事になるのは私にとっては最悪のケースだと書いたら、なぜ最悪なのかと友人から指摘がありました。
そこでいろいろと考えましたが、明確に応えられませんでした。
自民党員だからでしょうか、なぜかこれまで良い印象が皆無でした。

しかし、これもフェイスブックにも書きましたが、小池さんの戦い方は見事でした。
アラモの戦いを始めた時のトラヴィス大佐を思い出します。
その後の言動も、ほれぼれするほどです。
小池さんへの嫌悪感は強まっているのですが、その言動は見事な戦いぶりです。
石原さんは完全にコケにされていますし、増田さんも小さく見えます。
まあ、これは私の独断的印象ですが。

民進党は岡田さんと松原さんの不協和音があまりにみっともなく、結局はビジョンを持たない烏合の衆であることをさらけ出しました。
その後の動きも、あまりにお粗末です。
そんな中で石田さんと宇都宮さんが立候補の意向を出しました。
石田さんは、民進党に対する「いらだち」だった気がしますが、野党4党がもっと真剣に取り組んでいれば、宇都宮さんは立候補しなかったかもしれません。
宇都宮さんが出馬表明した段階で、野党4党の統一候補はなくなりました。

そして昨日になって古賀さんや鳥越さんの名前が出て、鳥越さんが立候補しました。
しかし、戦いはすでに終わっているように思います。
いまさらなんで出てきたのか理解できません。
私は鳥越さんも、ある理由で好きになれないせいかもしれませんが、全体が見えていない気がします。
いずれにしろ、新しい都知事は小池さんになるでしょう。
実に悩ましい。

小池さんは、その思想や政策において、私は共感できません。
しかし、今回の戦い方にはとても共感できます。
「敵ながらあっぱれ」という言葉がありますが、まさにそんな感じです。

人が誰かを選ぶ時、思想への共感と言動への共感のいずれが大きな影響を与えるでしょうか。
いまの私は、後者が決め手になりそうです。
もしかしたら、多くの人はそうなのかもしれません。
これは、今回の選挙結果を考える時にも、重要なポイントかもしれません。
私は福島瑞穂さんの考えにほぼすべて共感できますが、どうもあの言動には違和感があります。
小沢一郎さんの政治思想や政策の考え方には共感できませんが、彼の言動には共感できます。

政治というものは、実に悩ましいものなのかもしれません。

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■節子への挽歌3230:今日も素直に生きましょう

節子
昨日、時評編に書いた私の「機嫌の悪さ」をフェイスブックで紹介してしまいました。
まあたいした記事ではないので、いささか気恥ずかしく書いたのですが、なんといろいろと反応がありました。
数名の方が共感して下さり、私には面識のない人から「感銘した」とまでいわれました。
記事をシェアしてくださった人も複数います。
どうも世の中がよくわからない。

もちろん反論してくださった方もいます。
それもとても丁寧にです。

もしかしたら、と思うのです。
私の価値観もようやく少しは理解してもらえるようになったのか、と。
しかし、そう思うのは間違いでしょう。

一昨日、20年ぶりでお会いした人から、どうやって暮らしているのかとまた問われました。
素直にありのままを話しましたが、信じてはもらえずに、「相変わらず佐藤さんの話は冗談なのかどうかわからない」と言われました。
つまりその人は、20年前もそう思っていたのかもしれません。
それで湯島に来なくなったのかもしれません。
しかし、当時も今も、冗談など云ったことはないのです。
人は、自分の価値観でしか、他者の話を理解できないことがよくわかります。

私は、いろんな問題に関心を持ちますが、他の問題に関心が移ることも多いです。
つまり「飽きやすい」のです。
そういう話をしたら、ある人が、「それですぐ放り出してしまう」といいました。
とんでもない。私はこれまで一度として、「放り出したことはない」のです。
まあ引き延ばしたり、休んだりしたことは多いのですが。
どうもそれが誤解されてしまっているようです。
人はなかなか理解してもらえない。

いま5つの組織を立ち上げつつありますが、いずれも20年来の課題です。
それくらい私の時間軸は長いのです。
時に来世にまで伸びています。
みんな冗談だと思っているかもしれませんが、私は素直にそう考えているだけです。
それを理解してくれたのは、節子かもしれません。
もっとも節子も付き合いだしてから数年は、私の話が冗談なのかどうかわからなかったと後で話してくれました。
節子のような生真面目の人にはそう思えたのでしょう。
節子は私と長年一緒に暮らしたために、生真面目さはかなりなくなり、いい加減さがふえましたが、まあそれは「素直になれた」ということです。
生真面目さは後天的なもので、人はそもそも「いい加減」なものなのだろうと思います。
生命は、いい加減でないと生きていけないからです。

さて、「とかく住みにくい」この世を、今日もまた生きようと思います。
つかれますが、素直に。


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2016/07/11

■節子への挽歌3229:千日会の季節

節子
先日会った私と同世代の人が、こんな時代になるとは長生きしすぎたと嘆いていましたが、私も少しそんな気がします。
嫌な時代になってきました。
あからこそ私にはやることがどんどんと増えてくるのですが。
昨日の選挙結果には、いささか元気が出てきません。
テレビは手のひらを返したように、もう憲法改正の報道を始めています。
今日は一日、不機嫌で、畑に行ったのが唯一の仕事でした。

夕方、パソコンを開いたら、節子の小学校の同級生だったAさんからメールが届いていました。
そういえば、またその季節なのです。
その季節というのは、節子の生まれ故郷の滋賀の赤後寺の千日会です。
Aさんは、赤後寺の観音様の御志納の受付をされているのです。
今年は550人の拝観者があったそうです。

私がAさんご夫妻とお会いしたのは、たぶん節子が病気になってからです。
私の記憶は時間軸が混乱しているので、危ういのですが、節子は発病してから、友だちに会いに行きだしました。
私も基本的に同行しました。
節子がそれを望んだからです。
Aさんとも、節子と一緒に滋賀に行った時に、何回か食事をご一緒しました。
とても仲の良いご夫妻でした。
いろんな友達に会いましたが、それが契機でAさんはいまも時々メールをくれるのです。

Aさんのメールには、今年も敦賀に嫁いだ節子の姉が、赤後寺にお参りに来てくれたと書かれていました。
義姉は、節子よりずっと故郷思いなので、毎年、お参りするのです。

Aさんからメールをもらうといつも思います。
もし節子を東京などに引っ張り出さなかったならば、つまり、私と結婚などしなかったならば、きっといまも滋賀の自然の中で豊かな暮らしをしているだろうなと思うのです。
病気をして、自らの死を意識しだしてから、節子は滋賀の友だちとのつながりを深めだしていました。
滋賀にもよくいきました。

節子は東京の生活を楽しんでいたのだろうか。
時にふとそう思うことがあります。
少なくとも私よりは楽しんでいたと思いますが、その東京も最近は荒れてきました。
見栄えはきれいになってきていますが、たぶん節子は形の向こうを見透かすでしょう。
そして、その東京は、昨日の選挙でさらに劣化していくでしょう。
オリンピックなどは、私には狂気の沙汰です。
節子もきっと私と同じ意見でしょう。

東京の暮らしには季節がありません。
季節をしっかりと生きているAさんや義姉の人生は豊かだなと思います。
節子から教えてもらった豊かさは、いまも大事にしています。

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■参議院選挙結果に思うこと

参議院選挙は結局、国民の敗北で終わった気がします。
イギリスのEU離脱を問う国民投票と同じ結果です。
それでもイギリスは、終わった後の結果が明確だったので国民は自らがやってしまったことに気づきました。
しかし残念ながら日本ではそれさえ起きませんでした。

公明党は勝利し、民進党は敗北しましたが、自民党は複雑です。
共産党がもう少し伸びると思っていましたが、意外と伸びませんでした。
民進党も、私の予想よりは頑張りましたが。
いずれにしろ結果は日本の政治状況が大きく変わってしまったということです。
憲法が操作の対象になる時代がやってきたということです。
私たちは、先の戦争体験で得たものを未来に残せなかったわけです。
結局、日本人はお金に負けてしまったのでしょう。
悲しい気がします。

今回の選挙には、しかし元気づけられることもいくつかあります。
例えば沖縄です。
生活している人たちが自分の問題を的確に捉えて当事者として動き出せば、お上の意向に立ち向かえることを示しました。
沖縄の人たちは、大地やいのちに根づいた自分たちの物語を創りだしたのです。
昨年国会でデモをした若者やママの会の人たちの物語とは全く違います。
大切なのは、他者を変えようとすることではなく、みずからが変わること。
いまはまだ、政権や報道が創りだす、虚実の物語の力が大きいですが、生活に根づいた物語を生み出す力がよみがえってきた。
与えられた物語に唯々諾々と従ったり、利用するのではなく、自らの物語を軸に、自分たち「みんなの物語」を創りだす動きが広がりだしました。
抗議するデモではなく、提案するデモが始まった。
社会を構成する一人ひとりが自らの物語を語りだせば、社会は豊かになる。
貧しい為政者のもとで、豊かな生活を過ごしていたであろう江戸の町民たちや地方の百姓たちを見習いたいです。

沖縄だけではありません。
注意して見れば、新しい兆しはいろいろ感じられます。
がっかりした、失望した、というメールや電話が多いのですが、何に、あるいは誰に失望し、誰を怒っているのでしょうか。
その対象は、みずからであるべきです。
世界を変えるのは自分でしかありません。
それに取り組まないのであれば、安倍首相に依存するしかないでしょう。

友人のメールや電話で、私は選挙結果以上にがっかりしています。
いまの状況が気にいらないのであれば、動き出さねばいけません。
今日は最悪の気分です。
一部の方には、電話で失礼があったと思いますが、お許しください。

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2016/07/10

■節子への挽歌3228:3人夫婦

節子
昨日、リンカーンクラブ活動再開のキックオフを兼ねての集まりをやりました。
14人が参加しました。
リンカーンクラブの代表は、節子もよく知っている武田さんです。
武田さんとはよく論争で、しばらく絶縁状態が発生することもたびたびありましたが、会社時代からの長い付き合いです。
2人とも現世滞在の期間もそう長くないので、最近は仲良くやろうということで、またリンカーンクラブを始めたわけです。
2人だとまた破綻しかねなので、第3の人として、節子もよく知っている藤原さんに参加してもらったので、まあ今度はうまくいくでしょう。
組織活動は2人だと不安定ですが、3人だと安定します。

そういう話をしていたら、誰かが男女関係は3人だと三角関係に陥ってしまうと言いました。
たしかにそうかもしれません。
しかし、ハタと気づきました。
もしかしたら、そうではないのではないか。
夫婦を拠点としているから家族は壊れだしたのではないか。
そんな気がしたのです。
一夫多妻という意味ではありませんが、3人夫婦関係をベースにした家族も一案です。
まあこんなことを言うと、節子は反対するかもしれませんが、ともかくすべてを2つで対応しようとすると無理が生じます。
3人夫婦はもしかしたら人類を救うアイデアかもしれません。
しっかりと考えてみる価値がありそうです。

節子
どう考えますか?

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2016/07/09

■リンカーンクラブの会員活動が再開されました(2016年7月9日)


リンカーンクラブ代表武田文彦さんの「子どもたちを戦場に送らない勇気」出版を契機にして、しばらく会員活動を休止していたリンカーンクラブの会員制度を再開させました。
昨日、その呼びかけを兼ねた武田さんのミニ講演会を開催しました。
かつての会員も数名参加し、総勢14人。
武田さんの思いをお聞きした後、さまざまな話が続出、2時間半の予定が3時間半を過ぎても議論が続きました。
学生や女性にも声をかけていたのですが、最初は男性ばかり。
それも高齢者が多かったのが気になっていましたが、遅れて参加してくれたのが30代の女性でした。
若い彼女の参加に、少し希望を感じました。

参加者の考えはさまざまです。
安倍政権を強く支持している人もいますし、安倍政権打倒を目指している人もいます。
国民投票制度や教科書検定制度や経済的格差の構造化の話題も出ました。

しかし、今回の話し合いの根底に流れていたのは、全体主義化している時代の流れへの懸念です。
リンカーンクラブの理念は、「個人の尊厳と尊重」、つまり「一人ひとりのさまざまな考えが尊重され、できるだけ活かされる社会」を目指すことです。
制度的に言えば、そうした民主主義の理念に、現実の政治制度を近づけていく活動をしていくのが、リンカーンクラブの新しい会員制度の目指すところです。
その意味では、特定の政党を支持することはなく、さまざまな政党や個人が、自由闊達に議論しあえるとともに、誰もが同じように思いを発信でき、決定に平等に関わっていくことを、リンカーンクラブの方針にしていくことになっています。
クラブとしてのアドボカシー的な活動はあるとしても、具体的な活動は個人をベースにして展開していきたいと考えています。
全体主義社会への動きに対峙するには、自らの組織もまた、全体主義ではなく個々人をベースにした活動でなければいけません。
しかも、その個人が主体的に考えられる姿勢と環境を持っていなければいけません。
そこが一番の難題ですが、昨日の議論の様子を見ていると、たぶん大丈夫でしょう。

リンカーンクラブは会員募集中です。
詳しくはホームページをご覧ください。
http://lincolnclub.net/

なお7月24日には、リンカーンクラブサロンを開催します。
武田さんの「子どもたちを戦場に送らない勇気」を読んでの感想や意見をベースにした、気楽な話し合いです。
改めてご案内しますが、会員以外も大歓迎ですので、ぜひご参加ください。
武田さんの「子どもたちを戦場に送らない勇気」も読んでもらえるとうれしいです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#160703

20160709


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■節子への挽歌3227:この世は悲しみと喜びがあるから美しい

節子
先日この挽歌でも言及した「自死-現場から見える日本の風景」(晶文社)に、自死した高校生の残した詩が紹介されていました。
その一部を引用させてもらいます。

この世は悲しみと喜びがあるから美しい。
6の悲しみと、4の喜び。
これが、私の中のこの世の比率。
なにもない。0
これが、私の中の死という考え。
6つの悲しみと4つの喜びより、起伏もなにもない0。
臆病な私は、0へ。

この世は悲しみと喜びがあるから美しい、と言っている若者が、なぜ自死を選んだのか。
言い方を選ばずに言えば、生きている人こそが自死できるのだともいえる気がします。
同書には、自死した人や自死を企図した人の話も出てきていますが、みんなそれこそ、とてもよく生きていることが感じられます。
最近私が会う人たちと比べると、どちらが生き生きしているか。
自死した人の方が生き生きと生きている。
そんな気がしてなりません。
なんという大きな矛盾か!

しかし問題は、私自身のことです。
私も、この世は悲しみと喜びがあるから美しい、と思っている人間の一人です。
いや、そうだと思っていました。
でももしかしたら、私は最近、悲しみや喜びを忘れてしまっているのではないか。
そんな気がしてきました。

著者の瀬川さんは、難民キャンプで、生きているのではなく、ただ生存しているような存在に出会ったことに言及しています。
もしかしたら最近の私は、そうなっているのではないか。
それを隠すために、次々といろんなことに関わっているのではないか。
しかし、気を紛らせたり、装いをつくろったりするだけなのであれば、それは生きているとは言えません。

やはりまだ疲れから抜け出せずにいるようです。
気分がどうも、難民キャンプから抜け出せないでいるようです。
7月から8月は、やはり私には苦手です。
昔は大好きな季節だったのですが。

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2016/07/08

■ふたつの新しい風がふきだしました

参議院選挙の投票日が迫っているに、首都圏での報道は、都知事選の話題ばかりです。
今日はまた石田純一さんが、もし野党の統一候補にしてもらえれば立候補したいと記者会見をしました。
石田さんの動きに批判的なコメントも多いですが、私は拍手を送りたいと思います。
行政の体験がないとか、都政なのに憲法や原発の話をするとか言い人も多いですが、そう言っている人たちが日本をだめにしてきたとしか思えません。
大坂の橋下さんを持ち出すこともありませんが、体験重視は、「前例がない」といって現実を無視する日本の行政の本質でした。
それに、都知事は行政をするのではなく、政治をするのです。
また、憲法や原発の話は、どうして国政の課題だと考えるのでしょうか。
それこそが、私たちの生活に深くつながっている問題であり、それを生活から離れた世界の論議に任せたのが間違いだったのではないでしょうか。

都政の最大課題は、子育てや社会保障だという人もいます。
その発想が日本をこわしてきたのです。
東京都の最大の課題は、憲法であり、原発であり、言論の自由です。
それを踏まえない、子育てや社会保障などあるはずもありません。
産業のための政治や経済を、生活のための政治や経済に戻していかなくてはいけません。
安倍首相に取り戻されてしまった日本を、私たちのものにもう一度とり返さなくてはいけないのです。

都知事選の立候補者選びを見ていると、もう勝敗は決まっているように思います。
自民党は、小池さんに完全にコケにされて負けましたし、増田さんの優柔不断さを見ている都民は、増田さんが立候補したところで選ばないでしょう。
優柔不断なリーダーを望む人はいないからです。

民進党が取りざたしている人も、古賀さん以外は、論外でしょう。
蓮舫さんを退けたのが、民進党にとっての敗因の起点だったと思います。
岡田さんの政治センスの問題だろうと思いますが、岡田さんが率いている限り、参議院選挙もたぶん敗退するでしょう。
宇都宮さんは、立候補するでしょうが、まあ新鮮な発想は出てこないでしょう。
しかし、選挙はやってみないとわからないので、番狂わせがあるかもしれません。

私が考える意味のある候補者は、小池さんと宇都宮さんと古賀さんと石田さんです。
このメンバーだと、たぶん小池さんが当選しかねませんが、それは私には最悪のシナリオです。
しかし、小池さんの見事な喧嘩っぷりには、一度都知事をやらせてみたい気も起きます。
私にとっての最良のシナリオは石田さんを野党が統一候補にして、新しい風を起こすことです。

小池さんは小沢一郎さんの教えに従って、崖から飛び降りて風を起こしました。
石田さんは、立候補するかしないかはともかく、もっと大きな風を起こすかもしれません。

いずれの風が、これからの日本の方向性を決めていくでしょうか。
前から書いているように、政党の時代は、終わりつつあるように思います。

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■「子どもたちを戦場に送らない勇気」

リンカーンクラブ代表の武田文彦さんが、新著「子どもたちを戦場に送らない勇気」を書きました。
現在の安倍政権の、憲法をないがしろにした暴走を止めなければ、そう遠くない未来に、私たちは子どもたちを戦場に送ることになるだろうと、武田さんは憂いています。
そして、そうであればこそ、それを逆手にとって、自由で平和な暮らしができる政治体制を築くために動き出すべきだと考えたのです。
それが、もう本は書かないと言っていた武田さんが、再び本を出版した理由です。

武田さんは、湯島のサロンの常連の一人でもあるので、ご存じの方も多いでしょうが、彼はビジネスのかたわら、在野で民主主義をずっと研究してきた人です。
一時は、国会議員も巻き込んだリンカーンクラブも展開、早い時期から直接民主主義への可能性を提案していたので、最近亡くなった「第3の波」の著者、アルビン・トフラーにも関心を持たれた人です。
私自身は、リンカーンクラブ立ち上げ時に事務局長をやっていたこともあり、武田さんの思いやこれまでの取り組みはかなりわかっています。
必ずしも意見は同じではありませんが、武田さんの主張には基本的には共感しています。

今回、急遽、出版に踏み切ったのは、言うまでもありませんが、現在の参議院選挙、そして来年の衆議院選挙が、日本の未来を決めることになるだろうという、懸念からです。
本書の副題は「安倍政権の独裁政治を止めて、希望の国に!」となっています。
いままさに、日本は「大きな岐路」に立っています。
この私のホームページでも、自民党の憲法改正案については、何回も、そしてかなり詳しく書いたことがありますが、自民党憲法案に書かれている日本への道は、いまここで閉ざさなければ、ナチスを止められなかったニーメラーの二の舞になるでしょう。
それに気づいてもらうためにも、本書を一人でも多くの人に読んでほしいと思っています。

本書の内容を出版社のサイトから引用させてもらいます。

安倍政権の独裁政治は走り始めてしまった。
本書はその恐ろしさを明らかにして、このままだと日本はどうなるのかを示し、そうさせないために、本当の民主主義国家を築くにはどうすればいいかというところまで著したものである。
豊かに見えるこの世界が堕ち始めていることを一日も早く知り、平和を守るための最後の切り札をどう使うか。
暴走する安倍政権に歯止めをかけ、私たちが安心して幸せな暮らしができる国を築くための具体策を説いている。

本書のポイントは、ここに書かれている「平和を守るための最後の切り札」、そして「そのための具体策」にあります。
詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、武田さんは問題を「改憲か護憲か」などと単純化しません。
民主主義と平和主義を基本に置いた憲法が、いまのようにないがしろにされるのは、どこかに欠陥があったはずだと言うのです。
そして、「議会制民主主義」を問題にし、「現行の議会制民主主義を正当化し保証する日本国憲法そのものにも欠陥がある」、そして、「その欠陥が、安倍政権の憲法破りを誘発した」と、武田さんは指摘します。

ではどうしたらいいのか。
その答えは本書の中に書かれています。
「第三次民主革命」構想です。
「民主革命の真の目的は、安倍政権を倒すことではなく、より進化した、私たちがより安心して幸せな暮らしができる政治体制を築くことです」と武田さんは書いています。
「日本国憲法下の「議会制民主主義」という制度の根本的な欠陥を解決することが第三次民主革命の第一の目的、本当の民主主義を実現させることが第二の目的」なのです。
詳しくは本書をお読みください。

とても読みやすい本です。
武田さんの独創的な視点や提案もあります。
ぜひ多くの人に本書を読んでいただきたいと思います。

ちなみ、本書の出版を記念して、湯島で武田さんを囲むミニ講演会やカフェサロンも数回開催予定です。
現在決まっているのは、7月9日のミニ講演会と7月24日のサロンですが、継続的に開催していきます。

さらに来週詳しく発表できると思いますが、武田さんの言う「第三次民主革命」に向けての活動を始めるために、しばらく休会になっていたリンカーンクラブ活動も再開します。
まだ制作途中ですが、リンカーンクラブのホームページもできつつあります。
http://lincolnclub.net/
多くの人に入会していただきたいと思っています。

湯島でも本書の販売をしていますので、湯島に来たら声をかけてください。
コモンズ書店からも購入できます。

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■節子への挽歌3226:自分のペース

節子
昨日は1日、一応、休息しました。
というか、自分のペースで過ごしました。
私は、人生を昔から「自分のペース」で過ごしてきたつもりですが、最近、どうもそのペースが混乱しているのです。
要するに、しっかりした自分を見失っているということでしょう。
それがたぶん「疲れ」の原因なのです。

1日休んで、元気が回復したと言いたいところですが、必ずしもそうではありません。
なにかもやもやとした暗雲が、心を覆っているのです。
今朝の空模様と同じです。

昨日は畑に行って、草刈りをしてきました。
今年は野草に負けてしまい、畑は草で覆われてしまっているのです。
それでも先日少し手入れしたので、キュウリも頑張りだしました。
ナスときゅうりとミニトマトを収穫しました。
まあ苦労の割にはきわめて少ない収穫でしたが、それは苦労が足りないということでしょう。

「自分のペース」ですが、これを維持するのは、それなりに難しいことです。
片足で立ち続けるのが難しいように、やはり伴侶が大切なのだと感じています。
前に書いたことがありますが、節子がいなくなった時に、ある人から、自由に生きられますね、と心無い言葉をもらったことがあります。
自由とは、拠って立つところがしっかりしていないと得られないものです。
それに伴侶の存在は制約とは限らないのです。

10年ほど前に相談に来たことがある方から突然メールが来ました。
娘さんがいま新聞記者をしていて、「卒婚」して、仲よく別居生活をしている人の取材をしたいのだが、誰か知り合いがいないかという内容でした。
いるような気がしますが、思いつきません。
それで何人かの友人に訊いたのですが、残念ながら実例には出会えません。
「卒婚」という生き方は、私には理解できないのですが、たぶん「自分のペース」に関係しているのでしょう。
伴侶がいることで、自分のペースが維持できる関係と、できない関係があるのでしょう。
どうも私の場合は、前者だったようで、節子がいないいま、どうもうまく「自分のペース」を維持できずにいるのです。
困ったものです。

今日も、自分のペースを意識しながら過ごそうと思います。


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2016/07/07

■小池さんの喧嘩の仕方にほれぼれしました

私は、自民党の小池さんが、政治家としては生理的といえるほど嫌いです。
日本の政治を劣化させるうえで大きな役割を果たしたと思っている小泉元首相ほどではありませんが、唾棄すべき政治家だと思っています。

ところがです。
今回の都知事選の絡む小池さんの言動には、なぜかほれぼれしてしまいます。
政策内容とかそんな話ではなく、その「喧嘩っぷり」にです。
戦い方をよくご存じのようで、小泉さんよりも巧妙です。
話し方や姿勢や目の配り方がいい。
時に過剰なひと言がありますが(たとえば、都議会の人に外で謝罪をした後に、貴社に「みていたでしょう?」と発言したのは失策だったと思います)、実に見事しか言いようがない。
対する石原さんが、いかにも無能に見えてきます。

昨日は正式に立候補し、都議の解散まで掲げてしまいました。
できれば、オリンピック招致白紙撤回も言ってくれればうれしいですが、まあそこまでは期待できないとしても、何かを変えてくれるという期待を持たせてくれます。
私が信頼している数少ないテレビのコメンテーターの玉川さんは、「良いポピュリズム」もあると発言していました。
敵ながら見事、としか言いようがありません。

最初は、これで引退かと思っていましたが、小池さんが当選してしまう可能性さえ感じられだしました。
その戦いぶりには、安置小池の私でさえ、支持したくなりますから。
それに比べて、対する人隊のなんと情けない戦いぶりなことか。
自民党に限らず、民進党の迷走ぶりは笑うに笑えません。

しかし、小池さんのような人が都知事になったら、それこそ大変です。
東京都とカルビーとは違いますから。

私は都民ではないので、投票権はありませんが、その結果はなんだかもう見えてしまったような気がします。
都民は、また前と同じことを繰り返すのでしょうね。
そんな気がしてなりません。

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■節子への挽歌3225:親切行為は主客同値

節子
今日は出張の予定だったのですが、いろいろと疲労がたまってしまい、直前になって延期させてもらいました。
生活がかなり混乱してしまっているのも、いささかの過労のためかもしれません。

昨日は3つの約束をうっかり失念してしまいました。
午前中の約束は忘れずにいたのですが、午後なんとダブルブッキングしてしまっていた上に、夜の約束を全く忘れてしまっていたのです。
午後、湯島から次の約束場所に移動しようとしていたら、夜の約束のメンバーの一人が、やってきたので、話していて、夜の約束を忘れていたことに気づいたのです。
そこで日程を再調整してもらい、なんとかダブルブッキングを解消したのですが、ホッとしたのも束の間、帰ろうと湯島のオフィスを出ようとしたら、大川さんがやってきました。
節子も知っている、あの不思議な大川さんです。
今日の約束でしたよね、と言われたのですが、どうも頭が働きません。
彼からのメールが届いていないか、私が見落したかのいずれです。
結局、大川さんとの約束も延ばしてもらい、覚えていたほうのミーティングに参加したのですが、どうも頭が混乱してしまい、どっと疲れが出てきてしまったのです。

それに、最近のミーティングは、私向きでないものが多く、疲れます。
私は、手続き的な問題にはまったく興味が持てないタイプなのですが、何かに合わせるということができずに、私に仕事を頼むのなら、私の好きなようにやらせてくれることをいつも条件にしていたのです。
しかし最近は、一人ではなく友人知人と一緒にやることが増えてきたためか、どうもそういうわけにはいかなくなってきました。
一人だったら、はい、わかりました、それでは辞退させてもらいます、といえば済むのですが、友人知人とやる時にはそういうわけには行きません。
本当に困ったものです。

今日もまた、佐藤さんにはマネージャーが必要ですねと言われたのですが、誰かにマネジメントされるような貧しい存在にはなりたくありません。
もちろん誰かをマネジメントするような存在にもなりたくありません。
こうして、時に時間破産になり、ダブルブッキンギしたり約束を忘れたりして、他者に迷惑をかけながら、これからも生きたいと思っています。
いや、そういう生き方しかできないのです。

しかし最近なぜか、いろんなことで、自分が世間の常識とは全く違ったところで生きてきたのだということを思い知らされることがあります。
その原因は、なんとなくわかっています。
なぜか最近、いろんな人が、私のことを心配してくれて、収入につながるような仕事に巻き込んでくれるのですが、たぶんそれが原因でしょう。
しかし、当の本人である私にとっては、手続きの煩雑さや自分の価値観に合わないルールに従うことが、もったいなくて仕方がないのです。
価値観が違うために、どうもみんなの親切が私には理解できず、逆効果になっているような気がします。
つまり、みんな私のためにいろいろとやってくれているのでしょうが、私にとっては、私がみんなのためにやっている気がしてくるのです。

そういえば、以前、近くの方から、傾聴ボランティアの人が毎週親切に自宅まで来てくれるのだが、来週はその人の期待にどう応えようかと苦労していると言う話を聞いたことがあります。
親切行為は主客同値で、主もなければ客もないのかもしれません。

今日はゆっくりする予定です。
幸いに、たくさんの用事が重なってしまったので、たぶん佐藤さんはあっちの方に参加しているのだろうなと思ってもらえるでしょう。
実は、いずれにも参加せずに、ひっそりと自宅でのんびりしているのですが、一応、今日は忙しいことにしておこうと思います。
そんなわけですので、これを読んだ方も、決して真実をばらさないようにお願いします。
ご自分にも、ですよ。

以前、忙しいと言っていたのに、ブログを読んだら旅行に行っていたではないかと叱られたことがありますが、人の付き合いでは、「見逃すこと」も大事なことなのですから。
今日は、朝から、「忙しい日」をのんびり過ごそうと思います。
それにふさわしい、良い朝です。

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2016/07/06

■節子への挽歌3224:死を「死」としては語らず、「生」として語りたい

節子
先日、京都でお会いしたTさんから1冊の本をいただきました。
瀬川正仁さんが書いた「自死」(晶文社)という本です。
「現場から見える日本の風景」という副題があるように、自死に追いやられる人がなくならない日本の社会の実相のドキュメンタリーです。
いただいてからもう1か月近く経ちますが、読めずにいました。
そこで書かれていることは、予想されていたからです。
パソコンの横にいつも置いてあるのですが、真っ白な拍子に黒字で「自死」と大きく書かれた表紙を見るたびに、いつも読まなくてはと思う一方、読めずにいました。
しかし、ようやく昨日から読みだし、今朝読み終えました。
読み終えて、なぜかホッとしました。
Tさんからもらった宿題を、ひとつすませた気がしたからです。
このテーマの本は、読むにはそれなりのエネルギーが必要です。
ちょっとした表現や指摘にドキッとさせられたり、自分の身の回りと重なる話が出てくると、不安に覆われたりするからです。

以前、開催したフォワードフォーラムで、話させてもらったことがあるのですが、自死も病死も事故死も、「愛する人との別れ」という点では同じだろうと思います。
自死遺族の人には共感してもらえなかったこともありましたが、それは忘れられもしないし、乗り越えられないものです。
ただただ受け入れるしかない。
受け入れて、「別れた人」との新しい関係を創りだすしかない。
そう考えていますので、私は死を「死」としては語らず、「生」として語りたいという気持ちがあります。
しかし、こういう本を読むと、どうしても「死」がよみがえってくる。
だから、読むのがつらいのです。
しかし、読んでよかったです。
自死に向かってしまう現場の実相がていねいに書かれています。
多くのみなさんにも読んでもらいたいと思いました。

昨日は読み終えなかったのですが、今朝早く目が覚めたので、動き出す前に読むことにしました。
読み終えました。
しばらく、ちょっと心がざわめいていましたが、ようやく落ち着いたので、挽歌を書きました。
まだ頭が整理できていないので、本書の内容までは言及できませんでしたが、心から離れないメッセージもありました。
改めて思うことも少なくありません。

今日は、企業の管理者のみなさんが湯島に来ます。
その人たちにも、何らかのメッセージをしたいと思います。

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2016/07/05

■節子への挽歌3223:最近の私の生活には「ばら」がない

節子
相変わらずバタバタしています。
早く起きて畑に行こうと思っていたのですが、昨夜、宿題がこなせずに、朝からパソコンの作業をしてしまいました。
節子が一番嫌いな姿ですね。
節子は、パソコンに向かっている私が好きではありませんでしたから。

しかし最近なぜこんなに時間がないのでしょうか。
基本的には暇で暇で仕方がないという気分は変わっていないのですが、時間がない。
節子という「支え」がなくなったために、動いていないとだめなのかもしれません。
だから暇なのに、つまり充実感がないのに、何かをやりだしてしまう。
そんな気もします。

そういえば、節子がいなくなってから、ゆっくりと何かを楽しむということがなくなってしまいました。
旅行にも行きませんし、コンサートにも行きません。
私の人生には、いまや「ばら」はなくなってしまった。
いつも余裕のない、必要なことしかやっていない。
いや正確に言えば、必要さえないことばかりを、余裕なくやっているのかもしれません。
いずれもやらなくても、何の変化もない活動なのかもしれません。

しかし、最近はこういうことさえ考えられないほど、時間破産しています。
いつも宿題が山積みで、そのくせ、ひっ迫感よりも暇の意識が強いという、奇妙な状況です。

さて今日もまた出かける時間になりました。
今日もまたいろんな人が相談に来ます。
節子が時々言っていたように、なぜわたしはそういう相談を受けに出向いていくのか。
不思議な気がしますが、それがあるおかげで、何とか生き続けているのかもしれません。

人はまさに、人に支えられて生きています。
相談をしてくれる人たちに、感謝しなければいけません。

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2016/07/04

■節子への挽歌3222:「なんでこうなるの」状況

節子
なかなか「ぬかるみ」のような状況から抜け出せません。
ひとつ問題が解決すると、また別の問題が出てきます。
むかし流行った言葉に、「なんでこうなるの」というのがありましたが、まさにそんな気分です。
畑が気になっていますが、畑にも行けません。
困ったものです。

こうした原因の一つは、ネットのせいです。
ネットを通して、いとも簡単にいろんな相談が飛び込んできます。
先日は5年ぶりのメールのことを書きましたが、今日もまた10年ぶりくらいの方から突然の相談です。
10年ほど前、突然手紙が届き、お会いした方です。
節子とな寺名前の「節子さん」だったので、はっきりと覚えています。
今日は結局、対応はできませんでしたが、私を頼ってくる以上は、放置はできません。
一つひとつはさほどの作業量ではないのですが、しかしたぶん頼んでくる人が思うほどには簡単ではありません。
それにそうしたことが毎日いくつかずつ重なっていくと、それなりに時間がかかります。

依頼は一人からだけではありません。
ほかにもあります。
有料にしたら、私はたぶん今ごろ、蔵が建っていたでしょう。
しかし蔵が建たずに、いまもなお、頼りにされるということは、幸せなことでしょう。
蔵が建ってしまうと、そこで人間は終わりですから。
そんな終わり方はしたくはありません。
いささかの負け惜しみの気がしないでもありませんが。

依頼のメールだけではありません。
感謝のメールも届きます。
それには元気づけられますが、感謝されると人はさらに何かをやりたくなるものです。
ですから感謝のメールも、結局は依頼のメールと大差ありません。
困ったものです。

人のいない世界に行きたいと、時々思います。

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■日本はすでにこれまでとは違う道を歩みだしている

バングラデシュのレストラン襲撃テロ事件で、日本人7人が犠牲になりました。
とても残念な事件でした。
いろんなことを考えさせられました。

バングラデシュがパキスタンから独立する時に、私もあるグループにささやかな資金支援をし、そのグループからニューズレターを送ってもらっていたことを思いだします。
当時、1970年前後の世界は、まだたくさんの選択肢がありました。
新しい動きに、私自身は大きな夢を感じていました。
しかし、その頃、すでに世界は壊れだしていたのでしょう。
いや、第二次世界大戦からの復興が変質しだしていたというべきかもしれません。
1970年代後半から、私のような者にも、それが感じられだしました。

バングラデシュのテロ事件の報道を見ていて、気になることがあります。
テロへの批判ばかりが多くて、なぜテロが起こったのか、なぜ日本人が巻き込まれたのかということへの議論が表層的な気がするのです。
今回はJICAの関係者が被害に遭ったわけですが、それに関しても「JICAはバングラデシュのために働いてきたのに」という声が多いです。
こういう言葉はよく聞きますが、「バングラデシュのため」とはいったい何なのだろうかと思います。
今回テロを起こしたグループの人たちも、そう思っていたのか。
ここに大きな溝と落とし穴を感じます。

「日本人なら無害は過去の話」だと多くの評論家は発言していますが、後藤健二さんが殺害された時のISのメッセージ、「アベよ、戦いに参加するというおまえの無謀な決断でこのナイフはケンジを殺すだけでなく、おまえの国民を場所を問わずに殺戮する」を思い出します。
この言葉の意味を、私たちはもっと真剣に考えなければいけません。

7月10日は、参議院選挙です。
現実をしっかりと見ながら、真剣に考えて投票したいと思います。
イギリス国民のような後悔はしたくはありません。
目先の感情に振り回されたくはありません。

犠牲になった人たちへの追悼の念を持ちながらも、複雑な思いが去来しています。

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2016/07/03

■カフェサロン「新聞折り込み広告などをつかった遊具づくり」の報告

ワークショップ型サロン「新聞折り込み広告などをつかった遊具づくり」は、9人の参加となり、予想以上に盛り上がりました。
特に女性たちがこんなに熱中するとは思っていませんでした。
高齢者や子ども、さらには障害を持つ人たちと関わっている人たちは、早速、活用したいといいながら、作業途中や作品を写真に撮っていました。

子ども関係の活動をしている人の参加が少なくて、残念だったのですが、竹居さんご夫妻が小学生の子どもさん(こう君)と一緒に参加してくださいました。
子どもの創造力のすごさには、改めて実感しました。
こう君は、講師役の益田さんとは全く別の作品をつくっていました。
男性は私も含めて、3人参加しましたが、頑張ったのは太田さんだけで、小宮山さんも竹居さんも私も途中でついていけなくなったほどです。

講師の益田さんは、細菌学の教授でしたが、なぜ紙細工に凝りだしたのか話してくれるかと思っていましたが、あまりにも参加者の反応が強かったため、最初からみんなで手を動かすワークショップになってしまい、結局話は聞けませんでした。
益田さんは高校時代の同級生ですが、自分で工夫して何かをつくるのがその頃から好きでした。
益田さんが、最近こんなものをつくったと、と言って、自作の紙製のコマを持ってきたのは、10年ほど前でしたが、そこから作品は広がっていました。
今回、人気があったのは、紙飛行機(上に持ち上げ手を放すだけで滑空していきます。アンパンマンもできます)と紙製の「タケトンボ」でした。
折り鶴を発展させた人形や紙ボールなども作りました。
「ぶんぶんゴマ」も登場しました。
基本は、紙を丸く巻くことなのですが、これも試行錯誤の結果、増田方式を生み出し、ちょっとした道具を使うことで、誰でも簡単につくれます。

遊具をつくること、そしてそれを使って遊ぶこと、さらにはその遊びでいい意味での競い合いや創造意欲を高めること、など、さまざまな効用を感じました。
いつか私の住んでいる我孫子にも、彼に来てもらってワークショップを開きたいと思いました。
いろいろと広がりが期待できます。

今回は試行的なワークショップサロンでしたが、実践活動をしている人たちが、お墨付きを与えてくれました。
益田さんと一緒に、この活動を広げていくことができないか、少し考えてみようと思います。
仲間になりたいという方がいたら、ご連絡ください。
いま少しずつ広がりだしている「みんカフェ」、みんなのゆる~いカフェのプログラムにも向いているかもしれません。

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■節子への挽歌3221:いいことがありそうな朝

節子
昨夜は奇妙な夢ばかり見ていましたが、目が覚めたら、とてもさわやかな朝です。
その上、今朝はうれしいメールが入っていました。
良いことがありそうな1日です。

今日は、朝から夜まで、湯島でいろんな人と出会います。
時間があれば、畑に行こうと思いましたが、昨夜はあまり眠れなかったので、起きるのがちょっと遅れてしまいました。
畑は明日までお預けです。
ひどい状況になってしまっていますが、仕方がありません。

それにしても今日はなにかとても明るい気分になれる朝です。
悩ましい問題を、山のように抱えているのですが、不思議なほど、明るい気分です。
なぜでしょうか。

昨夜の夢は正確には覚えていませんが、夢が元気を与えてくれたのかもしれません。
思い出せることには、何もいいことは入っていないのですが。

久しぶりにホームページの更新を日曜日の朝に行えました。
最近は翌日になることが多かったのですが。
もっとも更新内容は少し省略してしまったのですが。

今日を契機に、生活のリズムを回復できればと思っています。
お墓にも行けるといいのですが。

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2016/07/02

■節子への挽歌3220:弱い人と強い人

節子
人生は思うようにはいきません。
昨日は朝からちょっとしたアクシデントがあり、予定をすべてキャンセルさせてもらいました。
昨年もそうでしたが、7月はやはりまだ「魔の月」です。
今年は大丈夫だろうと思っていましたが、最初の日から大変でした。
節子がいたらとつくづく思いますが、いないものは仕方がない。
依存しあってきた夫婦の一方がいなくなると、残された者はつらいものです。
それに、そもそも7月がわが家の「魔の月」になったのは、節子から始まったのです。
それからもう9回目の7月です。

もっとも夫婦いずれも健在なのに、依存関係のない夫婦がいいわけでもありません。
せっかく夫婦健在であれば、仲良く時間を共にすればいいと思うのに、留守にするのが伴侶への思いやりなどという話を聞くと、それがたとえ冗談であろうとも、複雑な思いになります。
一緒にいたくても、そうできない寂しさをわかってもらうのは無理でしょうが。

それはともかく、なんとか問題は克服しました。
気は許せませんが、昨年の二の舞にはならないでしょう。
しかし、問題は一つだけではありません。
まあ生きているといろんなことがある。
それは誰も同じでしょうが、完全に心を開いて話せる伴侶がいないのは、私のような弱い人間には辛いものです。
そもそも私の生き方を理解してくれる人は、そうはいないのです。
節子は、たぶん完全に理解してくれていました。
だから、弱い私も何とか強く生きられたのです。

しかし、強い人もいます。
実は今朝、節子も知っているOSさんからフェイスブックでメッセージが届きました。
「了解しました」という書き出しでした。
私から何か送ったわけではないので、何のことかとわかりませんでしたが、その前に私のメッセージが書かれていました。
なんと5年前の7月2日に出したものです。
なんと返事が来るまでちょうど5年もかかったのです。
まさにOSさんらしいですが、了解しましたの後に、その5年間のことが書かれていました。
どうやらずっと博士論文を書いていたようです。
彼は、NPO研究者ですが、日本でのNPO研究の分野で草分けの一人です。
生き方が不器用なので、時流に乗れるタイプではありません。
ですから有名な学者になったわけでもありませんし、NPOの支援者や実践者になったわけでもない。

私も、NPOに関わりだした時に、彼にはいろいろと手伝ってもらいました。
私が愛した若手研究者はそれぞれに活躍していますが、彼はあんまり見えてきませんでした。
気になりながらも、このところご無沙汰だったのです。
しかし、5年ぶりの返信とは、おそれいりましたとしか言いようがない。
この間、彼はずっと博士論文に取り組んでいたのです。
強い生き方をしています。

ところで、了解しましたの中見ですが、何を了解したのかといえば、一度、湯島に遊びに来ないかという私の連絡に、了解しましたと言ってきたのです。
私もたぶんにそういうところがありますが、彼はもう世俗的な時間を超えている。
来週、早速会うことにしました。

さて、彼は5年間、少しは成長しているでしょうか。
相変わらず、自分の世界を強く生きているでしょうか。
楽しみです。


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2016/07/01

■節子への挽歌3219:湯島にいると世界の変化が見えないのかもしれません

節子
節子もよく知っている武田さんが「子どもたちを戦場に送らない勇気」という本を書きました。
近々、書店に並びだしますが、これまでの武田さんの本の中で、一番抵抗なく読める本でした。
武田さんの、現政権に対する強い憤りも、激することなく、激しないこともなく、書かれています。

この本の出版を契機に、またリンカーンクラブの活動を再開することになりました。
節子がいたら、どう言うでしょうか。
武田さんと私の議論を横で聞いていた節子は、毎回同じような言い合いをして、よく飽きないものね、と言っていましたが、またその再来です。
しかし、言い合いはかなり減りました。

最近湯島に来る人たちは、節子の頃とは大きく変わりました。
節子を知っている人も少なくなりました。
そろそろ湯島を手放してもいいかなと、最近は思えるようになってきました。
湯島を手放す時は、たぶん私の生き方が大きく変わる時でもあると思いますが、湯島を拠点にした活動する仕組みもいくつか生まれだしました。
私が関わっていたり、提案したりしたものもありますが、よく考えてみると、私というよりも、湯島の空間が生み出しているのかもしれません。

武田さんと私はいずれももうさほど長くは活動できないでしょうから、リンカーンクラブももしやるとしたら、継いでくれる人を探さなければいけません。
活動は人に所属しているという考えのもとに、私の組織観は、とてもゆるいものですので、法人概念にはなじめないのですが、最近、湯島で生まれてきている組織は、法人になりだしています。
私も最後に妥協して、いくつかの法人を生み出して、そこから抜けるのがいいかなと思いだしています。
歳をとると、妥協もまた必要です。

時代がどんどん変わっていく。
私のまわりの世界も、どんどん変わっていく。
湯島にいると、20年の世界にいまでも浸れるので、そういうことを忘れがちですが、時代は10年前とは全く違っているのかもしれません。
今回、いろんなことを手掛け始めて、そんなことを痛感しています。

ちょっとさびしいような気もしますが、どこかで安堵感もないわけではありません。
人はいつまでも、同じ世界には留まれませんから。

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