■節子への挽歌3232:たかつきメロン
節子
今年も節子の生家の高月から、メロンが届きました。
わが家の畑のメロンは、前途多難な状況ですが、いつものように立派なメロンです。
節子は、高月のメロンが好きでしたが、最後の夏は、そのメロンも一口しか食べられませんでした。
メロンを見るたびに思い出します。
でも、いまはもうたくさん食べられるでしょう。
節子にお供えしました。
私は食にはほとんど関心がありません。
たしかにメロンは美味しいですし、おいしいものを食べることはうれしいことです。
でもどこかで「罪の意識」があるのです。
高価でおいしいメロンひとつよりも、安いメロンをたくさんの人たちと分かち合って食べるほうが私の性に合います。
そのほうがずっとおいしい。
メロンを食べたくても食べられない人に食べてもらう方が、自分が食べるよりもずっと幸せな気がします。
そういう気持ちがどこかにあるので、高価なものを食べる時に、罪の意識を感ずるのです。
いつの頃から、こうなってしまったのか。
会社を辞めてからのような気もしますが、生まれながらのような気もします。
前世の暮らしのせいかもしれません。
メロンの食べごろは収穫時から10日ほどたってからといわれます。
それまで節子に供えられたままでしょう。
今日は、畑から収穫してきた、かたちの悪いきゅうりを生で食べました。
鮮度のいい野菜は、何でもおいしいです。
メロンはなぜ収穫してから10日もたたないと美味しくならないのでしょうか。
たぶん枝から切り離されてもまだ生きているのでしょう。
考えてみると不思議です。
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