■節子への挽歌3230:今日も素直に生きましょう
節子
昨日、時評編に書いた私の「機嫌の悪さ」をフェイスブックで紹介してしまいました。
まあたいした記事ではないので、いささか気恥ずかしく書いたのですが、なんといろいろと反応がありました。
数名の方が共感して下さり、私には面識のない人から「感銘した」とまでいわれました。
記事をシェアしてくださった人も複数います。
どうも世の中がよくわからない。
もちろん反論してくださった方もいます。
それもとても丁寧にです。
もしかしたら、と思うのです。
私の価値観もようやく少しは理解してもらえるようになったのか、と。
しかし、そう思うのは間違いでしょう。
一昨日、20年ぶりでお会いした人から、どうやって暮らしているのかとまた問われました。
素直にありのままを話しましたが、信じてはもらえずに、「相変わらず佐藤さんの話は冗談なのかどうかわからない」と言われました。
つまりその人は、20年前もそう思っていたのかもしれません。
それで湯島に来なくなったのかもしれません。
しかし、当時も今も、冗談など云ったことはないのです。
人は、自分の価値観でしか、他者の話を理解できないことがよくわかります。
私は、いろんな問題に関心を持ちますが、他の問題に関心が移ることも多いです。
つまり「飽きやすい」のです。
そういう話をしたら、ある人が、「それですぐ放り出してしまう」といいました。
とんでもない。私はこれまで一度として、「放り出したことはない」のです。
まあ引き延ばしたり、休んだりしたことは多いのですが。
どうもそれが誤解されてしまっているようです。
人はなかなか理解してもらえない。
いま5つの組織を立ち上げつつありますが、いずれも20年来の課題です。
それくらい私の時間軸は長いのです。
時に来世にまで伸びています。
みんな冗談だと思っているかもしれませんが、私は素直にそう考えているだけです。
それを理解してくれたのは、節子かもしれません。
もっとも節子も付き合いだしてから数年は、私の話が冗談なのかどうかわからなかったと後で話してくれました。
節子のような生真面目の人にはそう思えたのでしょう。
節子は私と長年一緒に暮らしたために、生真面目さはかなりなくなり、いい加減さがふえましたが、まあそれは「素直になれた」ということです。
生真面目さは後天的なもので、人はそもそも「いい加減」なものなのだろうと思います。
生命は、いい加減でないと生きていけないからです。
さて、「とかく住みにくい」この世を、今日もまた生きようと思います。
つかれますが、素直に。
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