■節子への挽歌3248:墓地に親しみを感じました
節子
久しぶりにお墓に行きました。
最近、嫌なことが多いので、まあ厄払いもかねてですが、お墓に行ったら厄払いができるのかどうかわかりません。
それでも一応、節子と両親に墓前で般若心経をあげてきました。
お墓で気づいたことがあります。
久しぶりのせいか、奇妙に親しみを感じたのです。
昔は、お墓が好きではありませんでした。
というよりも、怖かったのです。
お恥ずかしい話ですが、大人になっても怖さは残っていました。
夜、一人でお墓には行けなかったのです。
でも、たぶん今ならば行けそうです。
ただしどこのお墓でも、というわけではないかもしれません。
今日なんとなく感じたのは、節子や両親がいる宝蔵院の墓地であれば、夜、一人でも来られるなと思ったのです。
それくらい、不思議な親近感を持ちました。
そこに節子がいるからなのでしょうか。
節子が彼岸に行ってから、死とかお墓とかいうものへの感じ方が変わりました。
それを感じたのは、節子の葬儀の通夜の時でした。
以来、現世と彼岸の区別が、私の中では曖昧になってしまっています。
時々、私はまだ現世にいるのだろうかと思うことがあるほどです。
今日は、もう一つ厄払いしてきました。
お墓から帰っても、まだ明るかったので、畑に行きました。
畑で生い茂る野草と闘ってきたのです。
植物の成長速度は、信じられないほどに早いです。
ひとつの花の苗畑は、野草で覆い尽くされてしまっていました。
それでも百日草の種を蒔いておいたところは、苗が出ていて、野草に勝っていました。
野菜も何とか頑張っています。
メロンが実をつけ、トウモロコシも実がなってきました。
野草と話しながら闘っていると、生きることの罪深さを感じられます。
少しは厄払いができたでしょうか。
明日もまた早いです。
本が読めないので、またたまってきてしまいました。
たまっているのは本だけではありません。
気が萎えていると、物事の進み方が遅いです。
困ったものですが。
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