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2016/07/26

■節子への挽歌3247:人は記憶の産物

節子
気が萎えた時に、元気をもらえるテレビ番組があります。
前にも書きましたが、「小さな村の物語 イタリア」です。
この番組を見ると、心がやすまります。
ただし、自分の生き方を反省させられることも多いのですが。

先週放映されたものを見ました。
人と人の距離が近い、村の物語でした。
そこではみんなとても豊かに暮らしています。
今回の主役の一人は、村の高齢者の昔話を聞くのが好きな若者でした。
もうひとりの主役は、その地域の言葉を残そうと辞書をつくってしまった高齢者です。
その人が、「人は記憶の産物」だと語りました。
記憶を大切にしなければいけません。
私はこれまで過去にはほとんど関心がありませんでした。
節子は「思い出づくり」を大切にしていましたが、私は「思い出」は好きではなかったのです。
それを少し反省しました。

節子はいま、私の記憶の中で一番生き生きと生きているでしょう。
にもかかわらず、私はその思い出を思い出すことに積極的ではありません。
私にとっては、思い出の中にいる節子ではなく、いまを生きる節子だからです。
しかし、いまを生きる節子などいるはずもない。
そこに私の混乱があるのかもしれません。

人が記憶の産物であれば、私の記憶から節子がいなくなった時、節子も私もいなくなるのかもしれません。
私にとって私がいなくなることはありませんから、節子はやはり、ずっと生きている。

また何やらわけのわからないことを書いてしまいましたが、Oさん、気は確かなので、ご心配は不要です。
今朝はご心配をかけてすみませんでした。
あの電話で、またいろいろと考えてしまったのですが、もう元気です。

今朝の挽歌を読んで、Oさんは遠くから電話してきてくれたのです。
人に心配をかけるとは、困ったものです。はい。

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