■節子への挽歌3227:この世は悲しみと喜びがあるから美しい
節子
先日この挽歌でも言及した「自死-現場から見える日本の風景」(晶文社)に、自死した高校生の残した詩が紹介されていました。
その一部を引用させてもらいます。
この世は悲しみと喜びがあるから美しい。
6の悲しみと、4の喜び。
これが、私の中のこの世の比率。
なにもない。0
これが、私の中の死という考え。
6つの悲しみと4つの喜びより、起伏もなにもない0。
臆病な私は、0へ。
この世は悲しみと喜びがあるから美しい、と言っている若者が、なぜ自死を選んだのか。
言い方を選ばずに言えば、生きている人こそが自死できるのだともいえる気がします。
同書には、自死した人や自死を企図した人の話も出てきていますが、みんなそれこそ、とてもよく生きていることが感じられます。
最近私が会う人たちと比べると、どちらが生き生きしているか。
自死した人の方が生き生きと生きている。
そんな気がしてなりません。
なんという大きな矛盾か!
しかし問題は、私自身のことです。
私も、この世は悲しみと喜びがあるから美しい、と思っている人間の一人です。
いや、そうだと思っていました。
でももしかしたら、私は最近、悲しみや喜びを忘れてしまっているのではないか。
そんな気がしてきました。
著者の瀬川さんは、難民キャンプで、生きているのではなく、ただ生存しているような存在に出会ったことに言及しています。
もしかしたら最近の私は、そうなっているのではないか。
それを隠すために、次々といろんなことに関わっているのではないか。
しかし、気を紛らせたり、装いをつくろったりするだけなのであれば、それは生きているとは言えません。
やはりまだ疲れから抜け出せずにいるようです。
気分がどうも、難民キャンプから抜け出せないでいるようです。
7月から8月は、やはり私には苦手です。
昔は大好きな季節だったのですが。
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