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2016/07/07

■節子への挽歌3225:親切行為は主客同値

節子
今日は出張の予定だったのですが、いろいろと疲労がたまってしまい、直前になって延期させてもらいました。
生活がかなり混乱してしまっているのも、いささかの過労のためかもしれません。

昨日は3つの約束をうっかり失念してしまいました。
午前中の約束は忘れずにいたのですが、午後なんとダブルブッキングしてしまっていた上に、夜の約束を全く忘れてしまっていたのです。
午後、湯島から次の約束場所に移動しようとしていたら、夜の約束のメンバーの一人が、やってきたので、話していて、夜の約束を忘れていたことに気づいたのです。
そこで日程を再調整してもらい、なんとかダブルブッキングを解消したのですが、ホッとしたのも束の間、帰ろうと湯島のオフィスを出ようとしたら、大川さんがやってきました。
節子も知っている、あの不思議な大川さんです。
今日の約束でしたよね、と言われたのですが、どうも頭が働きません。
彼からのメールが届いていないか、私が見落したかのいずれです。
結局、大川さんとの約束も延ばしてもらい、覚えていたほうのミーティングに参加したのですが、どうも頭が混乱してしまい、どっと疲れが出てきてしまったのです。

それに、最近のミーティングは、私向きでないものが多く、疲れます。
私は、手続き的な問題にはまったく興味が持てないタイプなのですが、何かに合わせるということができずに、私に仕事を頼むのなら、私の好きなようにやらせてくれることをいつも条件にしていたのです。
しかし最近は、一人ではなく友人知人と一緒にやることが増えてきたためか、どうもそういうわけにはいかなくなってきました。
一人だったら、はい、わかりました、それでは辞退させてもらいます、といえば済むのですが、友人知人とやる時にはそういうわけには行きません。
本当に困ったものです。

今日もまた、佐藤さんにはマネージャーが必要ですねと言われたのですが、誰かにマネジメントされるような貧しい存在にはなりたくありません。
もちろん誰かをマネジメントするような存在にもなりたくありません。
こうして、時に時間破産になり、ダブルブッキンギしたり約束を忘れたりして、他者に迷惑をかけながら、これからも生きたいと思っています。
いや、そういう生き方しかできないのです。

しかし最近なぜか、いろんなことで、自分が世間の常識とは全く違ったところで生きてきたのだということを思い知らされることがあります。
その原因は、なんとなくわかっています。
なぜか最近、いろんな人が、私のことを心配してくれて、収入につながるような仕事に巻き込んでくれるのですが、たぶんそれが原因でしょう。
しかし、当の本人である私にとっては、手続きの煩雑さや自分の価値観に合わないルールに従うことが、もったいなくて仕方がないのです。
価値観が違うために、どうもみんなの親切が私には理解できず、逆効果になっているような気がします。
つまり、みんな私のためにいろいろとやってくれているのでしょうが、私にとっては、私がみんなのためにやっている気がしてくるのです。

そういえば、以前、近くの方から、傾聴ボランティアの人が毎週親切に自宅まで来てくれるのだが、来週はその人の期待にどう応えようかと苦労していると言う話を聞いたことがあります。
親切行為は主客同値で、主もなければ客もないのかもしれません。

今日はゆっくりする予定です。
幸いに、たくさんの用事が重なってしまったので、たぶん佐藤さんはあっちの方に参加しているのだろうなと思ってもらえるでしょう。
実は、いずれにも参加せずに、ひっそりと自宅でのんびりしているのですが、一応、今日は忙しいことにしておこうと思います。
そんなわけですので、これを読んだ方も、決して真実をばらさないようにお願いします。
ご自分にも、ですよ。

以前、忙しいと言っていたのに、ブログを読んだら旅行に行っていたではないかと叱られたことがありますが、人の付き合いでは、「見逃すこと」も大事なことなのですから。
今日は、朝から、「忙しい日」をのんびり過ごそうと思います。
それにふさわしい、良い朝です。

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