■節子への挽歌3239:節子のおかげで何とか自分の小さな世界を維持できたような気がします
節子
昨日は引きこもり家族連合会の方たちと半日、ビシッと話し合いをしました。
この分野にもまた、現代社会の実相が象徴されています。
社会の現場に触れるほどに、疲弊感が強まる時代になってしまっているのが残念です。
時代はよくなっているのか、と問われると、いまの私は「なっている」とはとても答える気にはなれません。
昨日、芥川賞が発表されました。
「コンビニ人間」というタイトルの作品で、組織の部品になることで居場所を実感できるという主人公の話のようです。
実に皮肉のきいた作品のようですが、こういう話がいかにも納得できてしまう社会になってしまってきたようです。
つまり、主体性のある人こそが、社会に不適合を起こす時代といってもいいでしょう。
私も、主体性を大事に生きてきたつもりですが、社会に自分を合わせるのはいまなお不得手です。
節子がいればこそ、何とか自分の小さな世界を維持できたような気がします。
一人だったら、とても今のような生き方を貫くことはできなかったでしょう。
それにしても、相変わらずいろんな人が相談に来ます。
たぶんいまの社会が、そうさせているのでしょう。
どこかおかしくて、もがいている人が増えてきているのかもしれません。
そういう人たちが集まって、新しいコミュニティを創りだせばいいのでしょうが、もしかしたらもうコミュニティを生み出す拠りどころさえ、私たちは失っているのかもしれません。
昨日は、山岸会の話も出ました。
いまもなお各地で展開されているそうですが、当初の主旨とは違い、いまや集金マシンになっているという話もありました。
真偽のほどはわかりませんが、私たちはどうも金銭の餌食にされてしまったのかもしれません。
そういう生き方から私が抜け出せたのは、節子のおかげです。
たぶん私一人では、貫けませんでした。
いまになって、つくづく節子への感謝の念が湧いてきます。
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