■障害の所在
前の「事件を見る視点」の補足です。
障害者という言葉には、違和感を持っている方もいます。
「害」という文字に抵抗があるようです。
「障害者」ではなく、「障碍者」とか「障がい者」と書く人もいます。
私にはいずれも同じように感じますが、相手の思いを大事にして、使い分けるようにしています。
しかし、ある時、障害者の息子さんを持つ人から、そんなことはどうでもいいと言われたことがあります。
話す場合は、私は基本的には「障害を抱えている人」という表現を使うことも多いのですが、これもなんだか言い訳めいていて、自分でもすっきりしていません。
なぜすっきりしないのか。
それは、「障害」が人に置かれているからです。
そうなれば、人が「障害」になってしまいかねません。
その視点を変えなければいけません。
昨日の事件の加害者は、「障害者のいない社会」がいい社会だと発言しています。
これは危険な発想です。
なぜなら、障害のない人などこの世にはいないからです。
その範囲をどうやって決めるのか。
この言葉から、「者」と「い」という、2つの文字を削除して、「障害のない社会」と置き換えたら、誰も反対しないでしょう。
加害者が、そこまで思いを深めてくれたら、悲劇は起こらなかったかもしれません。
問題の本質は、そこにあるように思います。
彼が問題提起した時に、誰かがそのことを指摘してほしかった気がします。
いや、こうして事件が起きたいま、テレビで解説する誰かが、一人でもこういう指摘をしてほしいです。
障害の所在は個々の人にあるのではなく、人が生活する社会環境にあるのです。
そう考えると、障害福祉の捉え方は一変するはずです。
これは、障害者問題に限りません。
生きにくくなったのは、社会が「障害」を増やしているからなのです。
そして、そうした「障害」を増やしているのは、私たちかもしれません。
福祉の概念を一変させなければいけません。
それが行われないと、福祉は市場化の餌食になりかねません。
市場とは「問題」のあるところに生まれます。
障害を人に置いてしまうと、福祉産業という市場が生まれるのです。
私はこれを「近代産業のジレンマ」と呼んでいます。
近代産業は、問題解決型の発想ですから、人が障害を持つほどに市場は拡大します。
でもそれはどう考えてもおかしい。
人を基軸にして考える発想が、私には納得できます。
15年ほど前に、福祉や環境を産業化するのではなく、産業を、福祉化。環境化するようにベクトルを反転させなければいけないと書きましたが、残念ながらそういう方向にはまったく来ていません。
悲しい話です。
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