■節子への挽歌3223:最近の私の生活には「ばら」がない
節子
相変わらずバタバタしています。
早く起きて畑に行こうと思っていたのですが、昨夜、宿題がこなせずに、朝からパソコンの作業をしてしまいました。
節子が一番嫌いな姿ですね。
節子は、パソコンに向かっている私が好きではありませんでしたから。
しかし最近なぜこんなに時間がないのでしょうか。
基本的には暇で暇で仕方がないという気分は変わっていないのですが、時間がない。
節子という「支え」がなくなったために、動いていないとだめなのかもしれません。
だから暇なのに、つまり充実感がないのに、何かをやりだしてしまう。
そんな気もします。
そういえば、節子がいなくなってから、ゆっくりと何かを楽しむということがなくなってしまいました。
旅行にも行きませんし、コンサートにも行きません。
私の人生には、いまや「ばら」はなくなってしまった。
いつも余裕のない、必要なことしかやっていない。
いや正確に言えば、必要さえないことばかりを、余裕なくやっているのかもしれません。
いずれもやらなくても、何の変化もない活動なのかもしれません。
しかし、最近はこういうことさえ考えられないほど、時間破産しています。
いつも宿題が山積みで、そのくせ、ひっ迫感よりも暇の意識が強いという、奇妙な状況です。
さて今日もまた出かける時間になりました。
今日もまたいろんな人が相談に来ます。
節子が時々言っていたように、なぜわたしはそういう相談を受けに出向いていくのか。
不思議な気がしますが、それがあるおかげで、何とか生き続けているのかもしれません。
人はまさに、人に支えられて生きています。
相談をしてくれる人たちに、感謝しなければいけません。
| 固定リンク
「妻への挽歌17」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌3500:庭の整理という大仕事(2017.04.05)
- ■節子への挽歌3498:手賀沼公園がにぎわっていました(2017.04.02)
- ■節子への挽歌3497:桜の季節がきました(2017.04.01)
- ■節子への挽歌3496:節子がつなげてくれた縁(2017.03.31)
コメント