■節子への挽歌3226:自分のペース
節子
昨日は1日、一応、休息しました。
というか、自分のペースで過ごしました。
私は、人生を昔から「自分のペース」で過ごしてきたつもりですが、最近、どうもそのペースが混乱しているのです。
要するに、しっかりした自分を見失っているということでしょう。
それがたぶん「疲れ」の原因なのです。
1日休んで、元気が回復したと言いたいところですが、必ずしもそうではありません。
なにかもやもやとした暗雲が、心を覆っているのです。
今朝の空模様と同じです。
昨日は畑に行って、草刈りをしてきました。
今年は野草に負けてしまい、畑は草で覆われてしまっているのです。
それでも先日少し手入れしたので、キュウリも頑張りだしました。
ナスときゅうりとミニトマトを収穫しました。
まあ苦労の割にはきわめて少ない収穫でしたが、それは苦労が足りないということでしょう。
「自分のペース」ですが、これを維持するのは、それなりに難しいことです。
片足で立ち続けるのが難しいように、やはり伴侶が大切なのだと感じています。
前に書いたことがありますが、節子がいなくなった時に、ある人から、自由に生きられますね、と心無い言葉をもらったことがあります。
自由とは、拠って立つところがしっかりしていないと得られないものです。
それに伴侶の存在は制約とは限らないのです。
10年ほど前に相談に来たことがある方から突然メールが来ました。
娘さんがいま新聞記者をしていて、「卒婚」して、仲よく別居生活をしている人の取材をしたいのだが、誰か知り合いがいないかという内容でした。
いるような気がしますが、思いつきません。
それで何人かの友人に訊いたのですが、残念ながら実例には出会えません。
「卒婚」という生き方は、私には理解できないのですが、たぶん「自分のペース」に関係しているのでしょう。
伴侶がいることで、自分のペースが維持できる関係と、できない関係があるのでしょう。
どうも私の場合は、前者だったようで、節子がいないいま、どうもうまく「自分のペース」を維持できずにいるのです。
困ったものです。
今日も、自分のペースを意識しながら過ごそうと思います。
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