■節子への挽歌3243:過去の喪失
節子
昨夜、思ってもいなかったことが起こりました。
パソコンの電子メールの受発信記録がすべて消えてしまったのです。
不要なものはかなりこまめに削除していたのですが、この数年の何千というメール記録がなくなってしまったわけです。
いろいろと試みましたが、回復できませんでした。
一瞬にして記録が消える。
考えようによっては、実にすばらしい経験です。
自らの生き方を問い直す機会を与えられた気もします。
いろいろと考えさせられました。
実にもろい仕組みに支えられて、自分が生きていることにも気づかされました。
過去の記録(記憶)が消える。
節子が逝ってしまった後、そういう感覚に襲われたことがあります。
いろんな思い出が消えていくという感覚です。
そして、いま生きている足元が消えていく感覚です。
それに負けて後追いする人がいるのかもしれません。
過去のない現在や未来は、ありえないからです。
メールの場合、消えたのは「過去」ではなくて、「過去の記録」です。
実体が消えたわけではありません。
過去のメールでのやり取りという事実は、消えるはずもありません。
だからこそ、悩ましいのですが、消えたものにはさほどの価値はないとも言えます。
そこを勘違いしてはいけません。
喪失体験の場合、消えたのは今ここにあるはずの「実体」です。
過去の記憶などではないのですが、あるはずの実体がないことで、実体の記憶にすがりたくなる。
しかし、その実体は、ふたたび現出することはありません。
となると、むしろ記憶を消したくなる。
記憶が、喪失の哀しさを強めるからです。
そして、時に人は再婚する。
私には、後追いも再婚もあり得ない選択でしたが、それなりに足元を失い、記憶を消したいと思ったことがないわけではありません。
データ消失を体験して、いまはどこかにさっぱりした気持ちさえあります。
たぶんこれからいろいろと不都合を体験することになるでしょうが。
それと、決して消えない記憶や記録があるのだという気も、改めてしています。
今日も良い一日になるでしょう。
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コメント
佐藤様
ご無沙汰しております。
昨年の夏パソコンが壊れてしまい、約一年経ってやっと購入してコメントを書いています。
私の場合は彼との旅の写真も、もちろんメールも全て消え去ってしまいました。バックアップもとっていなかったのです。
でも、そのとき不思議と冷静な自分がいました。以前だったらかなり動揺していたと思います。これは良くも悪くも現実への執着が希薄になっていたからでしょう。「記録」することへの虚しさを実感したのです。そう、残念さよりもさっぱりしたとも言えました。
この一年は彼の形見の携帯を連絡メール用に使っていました。調べ物は図書館のパソコンを利用し、佐藤さんの挽歌もそこでずっと読んでいました。私がほっとしたり微笑んだり、刺激を受ける場所であり続けています。
その刺激とは、世界の様々な現象への危機感です。同時にまっとうな視座を持つ人々への共感。
悲しみと自責の念にとらわれすぎていたころは、とても分け入ることができなかった時評も読めるようになったのです。それは多少なりとも自ら学び続けた成果?もあるかもしれません。人間は生きていれば日々思いは変化し、停滞することもあるけれど積み上げられていくことは確実にあるんですね。
この間ホタルを観賞しに行ったら、思いがけずホタルが頬にとまりました。
あれから五年、人に触れることはもちろん、人から触れられることもなかったので思わず涙があふれてしまいました。そして、そのとまった感触に「彼」を感じたのです。生命の目に見えない連鎖や循環を考えると、自然と彼が触れたのだと思えたのです。こうしたささやかな「出来事」が救いになり、生きることの支えになる・・・。
本格的な夏はこれから。どうぞご自愛ください。
投稿: patti | 2016/07/24 09:46
patiさん
ありがとうございます。
>あれから五年、人に触れることはもちろん、人から触れられることもなかったので思わず涙があふれてしまいました。
この文章だけで私も涙が出ました。
そういえばそうですね。
投稿: 佐藤修 | 2016/07/24 09:54