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2016/08/15

■節子への挽歌3270:節子との絆

節子
節子が戻ってきているせいか、だらだらと過ごしています。
たぶん生前の節子は、こんなにだらだらしている私を見たことはないでしょう。
別にいい格好していたわけではありませんが、私たちはお互いに「だらだらする」ことはありませんでした。
2人とも、いつも何かやっていました。
お互いに、だらだらしている相手を見たことはないでしょう。
そんな気がします。
しかし、最近の私は、たぶん節子が驚くほどにだらだらしています。
何もする気がなく、ボンボンベッドで、寝るでもなく起きているでもなく、だらだらしていることがあるのです。
なぜでしょうか。

今日もまた、だらだらと節子の位牌の前で過ごしました。
せっかく帰ってきているのですが、まあそのくらいしか私にできることはないのです。
なぜ元気だったころに、もっとだらだらした時間をお互いに持たなかったのか。
悔いではないのですが、そんなことを時々思います。

節子が戻ってきているからかもしれませんが、人にとって死者と生者とはどこが違うのだろうk、などとも考えました。」
私には、生きている友人もいれば、死んでしまった友人もいます。
どちらをより多く思い出すかといえば、間違いなく死んだ友人たちです。
なぜか私の好きな友人たちは、若くして死んでしまいました。
だからその記憶は強く残っています。
言い換えれば、死んでしまった友人のほうが、私の世界の中では存在感が大きいのです。

下世話の話になりますが、もし節子が元気だったら、私は「浮気」をしたかもしれません。
節子が元気だったころにも、そうしたことが全くなかったわけでもありません。
節子よりも、魅力的な女性が現れたこともあります。
しかし、節子がいなくなってからは、そういうことは起きません。
節子との絆は、いまのほうが強いように思います。

だらだらしながら、今日はいろんなことを考えました。
彼岸から里帰りした節子とも、十分に話し合えたのかもしれません。

明日はもう送り火。
あっという間のお盆です。

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