■節子への挽歌3263:孫のにこたん
節子
今日も暑い日でした。
いささか疲れ切って、帰宅したら、自宅のジュン母子が来ていました。
今日はめずらしく緑色の服を着ていました。
服の色で印象はかなり違います。
ミニオンズが大好きな私としては、黄色い服がいいのですが、まだ黄色い服を着た孫には出会えていません。
ジュンが仕事をしている間の20分ほど、相手をすることにしました。
乳児とのコミュニケーションは実に難しいです。
スキンシップが大事だと思って、低い鼻をつまんだり、ほっぺを細くしたりしていたら、泣き出してしまいました。
機嫌のいい時は、私の顔を見て笑ってくれますが、今日はあんまり機嫌がよくないようです。
泣きだしたらもうお手上げです。
保育施設で、時々、事故が起きますが、事故を無くすのは難しいでしょう。
節子は、よくまあ、一人で2人の娘を育てたものです。
やはり、女性と男性は、まったく違う生き物だと、私には思えます。
孫の「にこ」は、今日で生後3か月です。
少しずつ「かわいい」という感覚が出てきました。
「にこ」という名前はどうも呼びにくいので、私は「ちびた」と呼んでいます。
ちなみに、私は小さな生き物は、すべてが「ちびた」なのです。
物事を単純に捉えるのが私の性格です。
娘たちのことも、いまでも時々、「ちびた」と呼んでしまうこともあります。
飼い犬のチャッピーは、生涯「ちびた」でした。
しかし、孫を「ちびた」と呼ぶのは失礼なので、そろそろ呼び方を決めなくてはいけません。
命名のひとつの理由は、いつも「にこにこ」しているようにということなのだそうです。
そうならば、むしろ「にこにこ」のほうが呼びやすいですのですが、「にこにこ」もどうもぴったりしません。
そういえば、娘たちがよく読んでいた絵本に「にこたん」というのがありました。
「にこたん」がいいかもしれません。
それにしても赤ちゃんの笑顔は何とも言えません。
かわいいとかということではなく、そこに透明さを感じます。
いのちの本質を感じさせてくれるのです。
人はみんな、こんなに透明な時代を過ごしてきた。
にもかかわらずどうして大人たちは、みんな透明ではないのか。
赤ちゃんの顔を見て、自らの赤ちゃん時代を思い出さなければいけません。
これからは、「にこたん」に学ぶことが増えていくのでしょう。
にこたんが人間になる3年後が楽しみです。
私は、3歳未満の赤ちゃんは、まだ人間になっていないという考えなのです。
人間でなければ何なのかといえば、もちろん「神様」です
すべての生命が神様のように。
しかし、人間だけが、3歳で神様を卒業してしまう。
これが私の人間観なのです。
節子には納得してもらえませんでしたが。
| 固定リンク
「妻への挽歌17」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌3500:庭の整理という大仕事(2017.04.05)
- ■節子への挽歌3498:手賀沼公園がにぎわっていました(2017.04.02)
- ■節子への挽歌3497:桜の季節がきました(2017.04.01)
- ■節子への挽歌3496:節子がつなげてくれた縁(2017.03.31)
コメント