■銅メダルがとれたことをなぜ喜べないのか
私は、現代の特徴の一つを「汎市場化」、つまり、すべての存在を貨幣経済の対処に組み込んでいくことと捉えています。
そして、それに少しでも抗うのが、私の生き方になっています。
汎市場化に大きな勢いがついたのが1980年前後です。
文化産業論が語られ、福祉や環境も「成長市場」だと狙われだしました。
貨幣経済は、私たちの生活の世界を次々と自らのための市場に変えていったのです。
そのひとつがスポーツです。
「1980年代には何百億ドル規模のグローバル市場に成長した」とフランクフルト学派のヴォルフガング・ シュトレークは「時間かせぎの資本主義」の中で、書いています。
その象徴がオリンピックでしょう。
オリンピックには拝金主義者たちが集まっています。
エンブレムの開発に、あれほどのお金が飛び交う一事をもってしても、それは明らかです。
どう考えてもおかしいでしょうが、誰もそれに異を唱えません。
考えてもいない5000億円の予算計画を提案することが、オリンピック招致のためには必要だったなどと、後になって明言している責任者たちは、おれおれ詐欺の実行者とそう違わないでしょう。
すべてはお金のため、すべては貨幣経済の延命のためです。
それがどれほど人をだめにしていくか。
ようやく卒業したかと思っていた「賃金奴隷制」の復活です。
オリンピックの報道をテレビで見ていて、実に哀しくなることがあります。
たとえば、銅メダルをもらった選手が、喜びを語らずに悔しさだけを語る時です。
発想がどこかで歪んでいます。
まともなスポーツ選手であれば、ちからいっぱい頑張って銅メダルを得たことを喜び、その上で、次は金を目指したいという夢を語るのではないかと思うのです。
いずれも明るい話です。
できれば、銅メダルさえもらえなかった選手たちを讃えてもほしいです。
結果よりも力を出し合って讃え合うことこそが、オリンピックの精神ではなかったのか。
金メダルを取ることが目標ではないと思うのは、私だけでしょうか。
なぜ勝者も敗者も讃え合う精神をなくしてしまったのか。
インタビューを見ていて、とても哀しい気がしましたが、そこにこそ現在のオリンピックの本質があるのでしょう。
みんな人間性を歪めているのではないか。
競技をしている人たちは、本当に人間なのか。
薬物ドーピングは問題になっていますが、薬物を使わない精神的なドーピングも問題にすべきではないのか。
念のために言えば、私は、そう語った選手を非難しているのではありません。
彼女は、銅メダルをもらえたことのすごさを素直に喜べなくなっている。
私が悲しく思うのは、彼女をそうさせてしまった状況が恐ろしいのです。
そうさせていることに、私たち観客も荷担しているのかもしれません。
もしそうであれば、歪んでいるのは私たちです。
まずは私も自らを問い直す必要がある。
彼女にインタビューを見て以来、そう考えています。
2020年の東京オリンピックは「アスリート・ファースト」に知ると小池知事は話しています。
ぜひその意味をしっかりと考えてほしいです。
せめて、メダルだけで評価する風潮はやめてほしいものです。
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