■節子への挽歌3280:宗旨替え
節子
先日からの「異変」の症状はほぼおさまりました。
今週、病院に検査に行こうと思いますが、最近、かなり身体的な不調和は大きくなってきています。
私は、どこかに身体は自然に朽ちるのがいいという考えがありますので、健康に気をつけるという発想が弱いのです。
たとえば、私の眼はかなり前から「異常」を感じますし、まぶたが落ちてくるという、あきらかな病状があります。
ですから視力もあまりよくなく、特に午前中は読書さえかなりつらいです。
眼医者に行って治療すればいいのですが、どうも行く気にはなりません。
さすがに最近はあまりにひどいので、行こうと思いながらも、先延ばししています。
ほかにもいろいろあるのですが、書くとまたいろんな人から叱られそうなのでやめますが、身体を補修しようという発想があまりないのです。
形あるものは壊れていく。
その自然の摂理に抗うことは、あまり好むことではありません。
今回の件では、神経内科がいいと複数の人から言われました。
脳神経外科を薦めてくれた方もいます。
リンパ師の方からは施術をしてもいいよと申し出がありました。
まあ、とりあえず近くの病院に行くつもりですが、こうやって何か問題が起こった時に、オープンにしてしまうことの意味を改めて実感しました。
現代社会の問題の本質は、個々人が自分の問題を自分で所有しすぎてしまうことかもしれません。
人は一人では生きていません。
なにがしかの影響を周辺に与えながら生きている。
人のいのちは、その人だけのものではない。
節子との別れで、私が一番強く実感できたのは、そのことです。
最近読んだ岩井克人さんの「経済学の宇宙」にこんな文章がありました。
他人の心の働きを自分の心の働きと同様に感じ取るミラー・ニューロンの発見は、人間は他人と互恵的な関係に入る性向を生得的に持っていることを示唆しています。私たち人間は、まさに社会的本能として、様々な驚くべき能力をあらかじめ脳の中に書き込まれてこの世に生まれてきているのです。私の人生経験からも、このことは納得できます。
であれば、やはり病院に行かねばいけません。
私も宗旨を変えて、ガタガタの身体を少し補修するようにしようと思います。
娘は、まずは無茶をするのをやめるようにといいます。
娘から見ると、私はどうも無茶苦茶に生きているようなのです。
まあこればかりはいまさら治せませんが、過剰な無茶は控えようと思います。
まあ今はそう思っています。
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