■節子への挽歌3282:やはり治療をしたくなりました
節子
まだ異変の余韻が残っています。
検査はしてもらいましたが、何も治療的なものはしていないため、体調は変わりなしです。
今日も、企業の関係者とのミーティングをもったのですが、みんなからやはり神経内科には行ったほうがいいと指摘されました。
企業にいると、やはりいろんな病気の体験者を知っているようです。
みなさんと違ってさほど社会の役には立っていないので、私の身体をケアするコスト・パフォーマンスは、社会的に引き合わないよと話しましたが、やはり体調の違和感が残っているのはあまり気持ちのいいものではありません。
でもまあ、幸か不幸か、今週は目いっぱい用事が入っています。
日曜日の午後、はじめて施術を受けられるのですが、それまではこのまま持続しなければいけません。
またおかしなことを書きますが、人の死はいつも突然です。
医師にはわかっていたと思いますが、節子の死もまた、私にとっては突然でした。
同時に、人の死は日常の事柄です。
今日も台風の水害事故で数名の人が亡くなっていますが、マスコミでは毎日紙が報じられています。
当事者には突然でも、世間的には日常なのです。
私が、突然死んだとしても、世界は何も変わりません。
その死が、長く残るのは、極めて例外的な話なのです。
そして、私の死の場合には、たぶん誰の心にも長くは残らないでしょう。
なぜならば、私には両親も妻もいないからです。
死が人生に大きな影響を当てるのは、基本的には妻と子どもたちだろうと思います。
親は自分より先に死ぬのが普通ですので、悲しいとしても受け入れられます。
子どもの死は、たぶん親の人生を変えるでしょう。
妻の死は、もし夫婦関係ができていたら、夫の人生を変えるはずです。
夫の死が妻の人生を変えるかどうかは、あまり自信がありませんが、仮に私が先に死んでも節子の人生は、そうは変わらなかったのではないかという気がします。
生への執着はあまりないのですが、身体の違和感はいささか不快です。
だから死について考えたわけではないのですが、毎日たくさんの人たちが死んでいることを考えると、何かとても不思議な気がします。
支離滅裂な文章になってしましました。
やはり神経のつながり方が、どこかでおかしくなっているのでしょうか。
頭の後ろが、なにかもやもやした感じで、明日の打ち合わせの資料作りはあきらめて、早いですが、今日はもうパソコンはやめましょう。
あの奇妙な感じの再発は避けたいですので。
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