■節子への挽歌3278:沢蟹は見えませんが存在します
節子
気忙しい毎日に陥ってしまっています。
伴かも2日間、書かずにいました。
たいしたことをやっていない時に限って、そうなります。
問題が多発しすぎですね。
いささかオーバーロードです。
そのくせ充実感は皆無。
こういう時は要注意です。
今朝は、秋晴れのとても気持ちのいい朝です。
やることの多さに、いささかつぶされそうになっていますが、秋の空を見ていると元気が出ます。
台風で、庭は大変な状況ですが、池は幸いに無事でした。
先日放した沢蟹たちが歩いていないかと、時々、見に行きますが、一度も出会えていません。
それぞれの場所を見つけて安住していてくれるといいのですが。
姿は見えませんが、庭のどこかに沢蟹が元気にしていると思うと、なぜか豊かな気持ちになります。
人間の世界は、その人の脳が創りだす世界だと言われます。
実際に沢蟹が見えなくとも、そこに沢蟹が棲んでいることを知っていれば、もう十分なのです。
実際に、私たちに見えている世界は、ほんの一部でしかないのですから。
たまたま見えなかっただけと考えればいいだけの話です。
これは沢蟹に限った話ではありません。
現実の世界では、人には限界があります。
しかし、現実の限界は、知識と想像で無限に広げられるのです。
たとえ節子には実際に会うことは難しいとしても、節子がいる世界に生きることは可能なのです。
さらに言えば、これは節子に限った話でもありません。
世界は、そうやって豊かにしていけるのです。
しかし、豊かにしていくことは、ある意味でさまざまなわずらわしい問題も生み出します。
人と関わることは、かならず何らかの軋轢を伴うものですから。
そして、時にオーバーロードとなってしまうのです。
あまりにも複数の世界に生きているために、藤棚のように、私自身が倒壊しそうになっているのかもしれません。
今日は、発達凸凹組合を作りたいと言っている若者が数人湯島に来ます。
毎日、まったく違う世界を体験することは、昔は「元気の素」でしたが、どうも最近は「疲労の素」になっているのかもしれません。
いのちは無限としても、どうも身体には限度がありそうです。
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