■節子への挽歌3286:10回目の命日
節子
節子がいなくなって10年目に入りました。
何もなかったような9年間でもありますし、あまりにもたくさんのことがあった9年間でもありました。
ただ、わが家の生活環境はほとんど変わっていません。
もし仮に、節子がいま戻ってきても、この9年間が全くなかったように過ごせるでしょう。
たぶん子どもさんを亡くされた方たちは、そういう思いで、子ども部屋をそのままにしていたりしているのでしょう。
自分が体験してみないと実感できませんが、それは特別のことではなく、実に自然の成り行きなのです。
なにしろ「不在」を実感していないのですから。
とはいえ、9年は長い。
庭は荒れ、私自身も朽ち果てそうです。
健康にいたいという気持ちがある一方で、どこかで老いを肯定している気持がある。
健康に生きながらえても、意味を感じられないからです。
しかし、与えられて生は、あまりおろそかにはできません。
私だけのものではないからです。
10回目の命日ですが、当初は10回忌の法事を開催しようかと考えていたのですが、迷った挙句に、今日はただただ静かに過ごすことにしました。
私の勝手な思いで、風習にはない10回忌法事を呼びかけても、戸惑う人の方が多いでしょう。
それに声をかけようと思っていた親戚のみなさんも、みんな私と同じく高齢ですので、いろいろと事情を抱え込みだしているのです。
娘とお墓に行って、菩提寺にお礼を言って、あとは静かに1日を過ごす。
たまには、そういう法事もあってもいいでしょう。
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