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2016/09/17

■節子への挽歌3300:一人で生きること

節子
最近痛感するのは、夫婦で生きるのと一人で生きるとでは、まったく世界は違うのだということです。
とりわけ男性にとっては、一人では生きにくいのではないかとも思います。
そもそも女性は、本来的に生きる力を持っていますが、男性にはそれがあまりないような気もします。

先日、テレビで稲垣浩の「待ち伏せ」という映画をやっていました。
久しぶりに観たのですが、そこに登場する浅丘ルリコ演ずる、おくにという女性が、「女はどうやっても生きていけるから」と言う場面がありました。
一般的な常識はどうかしりませんが、私も生きていく力は男性よりも女性が強いように思います。

まあそれはそれとして、節子がいなくなってから、どうも生きにくいのはやはり一人だからです。
節子がいなくなった後、あるシンポジウムにコーディネーターとして出たことがあります。
その時のパネリストの一人が、私が妻を亡くしたことを知って、「自由になれますね」と言いました。
その方はとてもいい活動をされている方ですが、その一言は決して忘れません。
しかし、妻のために生きにくくなる人もいるわけです。
生きにくくなるために結婚する必要など全くありませんから、私には理解できませんが、その人はそもそも自由ではなかっただけの話です。
たぶんその人は、妻に先立たれても自由にはなれないでしょう。

お互いに、生きやすくなるために結婚する、というのが私の考えですが、私の場合は、それが実現できた気がします。
念のために言えば、節子もまた、たぶん同じ思いを持っていたはずです。
一人ではできないことを、私たちは、結婚したことで実現できました。

しかし、そうした中で40年も暮らしてしまうと、その一方がいなくなると、とたんに生きにくさが現れます。
生きにくい人生の10年目に入っても、まだ、一人で生きることに愚痴をこぼしたくなります。
愚痴をこぼす相手は、もちろん節子ですが。
困ったものです。

お彼岸が近づきました。

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