■節子への挽歌3296:無条件に信用しあえる関係
節子
ある調査によると、最近、日本では人を信用するよりもまずは疑うという文化が広がっているようです。
最近もそうした生々しいことをつづけて体験しました。
私のこれまでの生き方の基本が、根底から壊されたような気がして、とてもさびしいです。
人を信用することなく、人付き合いをしても、楽しくないだろうなと思いますが、信用して裏切られるのが、それ以上に嫌なのかもしれません。
たしかにそれはそうですが、だからといって、信用しない生き方は、そもそも楽しくないでしょう。
先日、ある人と話していたら、その人が「父がともかく人を信ずる人だったので」というのです。
その人はとてもいい人なのですが、ちょっと他者への寛容さにやや厳しさがあったので、それを指摘したら、この言葉が出てきたのです。
もしかしたら、それは「父」だけではなく「夫」もそうだったのかなと思いました。
彼女の伴侶も、たぶんいろんなことを背負いこんで、みずからを死に追いやったのです。
もし善意の人が生きづらい社会であれば、その社会は変えなくてはいけません。
私が自殺に追い込まれることのない社会づくりの活動にささやかに荷担させてもらったのは、それが理由です。
善意の行先が、自死につながってしまうような社会は変えていかねばいけません。
それに、善意の人でさえ、生きづらいのであれば、善意でない人が、仮にいるとしたら、さらに生きづらいはずです。
善意では生きづらいので、善意から逃げてしまうということです。
それは社会としては本末転倒でしょう。
そんな社会は、社会といえるのか。
人はだれでもみんな、できることなら、善意で生きたいと思っているはずです。
もともと善意でない人などいないのです。
それは赤ちゃんの顔を見ていればわかります。
でもどうして、人は人を信用しないのでしょうか。
この数日、この難問に呪縛されてしまっています。
完璧に信用しあって、絶対に裏切られることなどなかった、節子との関係は、私の生きる力の根源だったのかもしれません。
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