■節子への挽歌3336:「喪失」によって「獲得」するものもある
節子
「こころの時代」に関連して、もう一つ書こうと思います。
というのは、最初に思ったことと違うことを書いてしまったのです。
書き終えて、それに気づきました。
その番組での話し手は、禅僧の金子真介さんでしたが、聞き手はいつもの金光寿郎さんです。
その金子さんが、こう話されたのです。
以前、聞いたある人のお母さんですけれども、「無いものを欲しがるよりも、あるものを喜ばしてもらおうよのぉ」って、いつもおっしゃっていたそうですね。そこへ腰が据わると、苦しみの受け止め方が変わってきますね。
この言葉を聞いて、「喪失体験」という言葉を思い出しました。
そもそも「喪失体験」という言葉が間違いかもしれません。
「喪失」によって「獲得」するものもある。
あるいは、喪失したと思っていても、残っているものもある。
「ないもの」があれば{あるもの}もある。
節子がいなくなって9年以上経過して、ようやくこのことが納得できるようになりました。
金光さんが紹介しているように、「あるものを喜ばしてもらおう」という姿勢があれば、「喪失体験」は乗り越えられるでしょう。
もちろん、それなりの時間はかかりますが、その時間もまた、喪失によって得られたものかもしれません。
前の挽歌の、「まだ施しするものがある喜び」にも通じますが、
これまで気づかなかった小さな喜びやありがたさに気づけるならば、人生は間違いなく豊かになるでしょう。
そして、喪失したものとのつながりを実感できるようにもなるでしょう。
喪失は、世界を深くし、より多くのものを獲得することでもあるのです。
まあ、今日は、暑さの中で、だらだらしていましたが、それなりに生きることをかみしめられたのかもしれません。
そういえば、私がだらだらしているそばで、水槽の沢蟹たちは元気に騒いでいました。
それを見ながら、この沢蟹たちは何を考えているのだろうかなどと考えていたのですが、沢蟹は私を見て、同じようなことを考えていたのかもしれません。
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